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【 「 MW 」 】

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 結城の背中が凍り付いた、気がした。我に返った賀来はひやりとしたものを感じながらその背中を見つめる。やがて、肩が滑るように動いて、結城が振り返った。
「お前は俺の、オモチャ、だな」
 束の間、賀来は結城の顔を見つめて、かすかに微笑んだ。
「……そうか」
 小声で相づちを打ち、ドアの方に向き直る。
 養護施設で子供たちの面倒を見る賀来にとって、オモチャがどんなものなのか、よくわかっていた。時に当たり散らし、時に大切に抱え込み、時に壊す。だが絶対に自分のものでなければならない――オモチャとはそういうものだ。
「おい」
 ドアの隙間から滑り出ようとして、賀来は腕を掴まれた。
 部屋の中に引っ張り込まれる。
「どこに行く気だ」
 足もとに、抱えていたものがすべて落ちる。賀来はいきなり壁に押しつけられて、思わずのどを鳴らした。結城はにやつきながら身を強張らせる賀来を見下ろす。
「今夜は何も言わないのか、説教好きの神父さん」
「……――」
「俺は明日、MWを手に入れる。わかってるのか」
 ――とうとう結城が、MWを手に入れる。
 その瞬間を思うだけで胸が潰れるような苦しみが込み上がった。
 なぜ苦しいのかわからないまま、賀来はすべてを胸の裡に封じ込めて、結城から顔を背けた。
「あぁ、わかってる。だが俺もこの目で見たいんだ。……MWを」
「急に積極的になったな。どうしたんだ」
「……この十六年、俺もずっと悪夢を見てきたんだ」
 答えなら、これで十分なはずだった。悪夢にうなされ続けた賀来を結城も知っている。小声で答えて結城の身体を押しやり、賀来は震える手で足もとの毛布を拾い上げた。それを強く握りながら間近に立つ結城を見た。
「それに、俺はお前を裏切らないんだろう?」
「……あぁ、そうだったな」
 忘れてたよ、と言うように結城はうそぶき、いきなり賀来ののど元を掴んだ。場所を思い反射的に抗おうとして、動きが鈍った。それでもここは神の家なのだと思い直し、賀来は結城を押しのけようと足掻いた。
「おい、結城……っ」
「今さらだろ?」
「ここは教会だ、止めろ、結城」
「下の礼拝堂へ行くか。どうせならお前の信じる神に見せつけてやろうぜ」
「止めてくれ!」
 思わず悲鳴に似た声が上がった。ほとんど反射的なものだった。結城は賀来の叫びを無視して腕を掴むと、乱暴に引っ張った。賀来自身のベッドに突き倒してすかさず馬乗りになる。
「MWが俺のものになる。どうやら神は俺の味方だったな、賀来」
 逃げようと藻掻きながら、それを知っているのは神だけだ、と答えかけて、賀来は口を噤んだ。
 もう自分に神を語る資格はない。
 それはこれまで生きてきた月日を否応なく思い起こさせ、神を感じられないことに胸が潰れ――まるで半身をもがれるような痛みが走って、賀来はきつく震える唇を噛んだ。
 いつだって手を差し伸べてくれたのは神だった。
 神の御心を信じたからこそ生きてこられた。
 その恩恵を受けないことが激しい苦しみに繋がるのだと思い知らされて、賀来は思わず顔を両手で覆った。神を頼りたいと願う心をねじ伏せて自分の手の平に爪を立てる。こらえきれない震えが指先まで広がった。
「賀来」
 結城の手がいきなり肩を強く掴んで、賀来は我に返った。
 悪夢を見たあとのように冷や汗が額から流れる。
 ベッドに横たわりながらぼう然と見上げると、結城はいつもの無表情だったが、肩を掴んだ手はすぐに外された。
 のし掛かる結城から顔を背け、賀来はいつの間にか荒くなっていた息を抑えながら額の汗を拭った。
「……お前の言う通り、男に車の鍵を、渡した」
 今朝方、車を降ろされる時に命じられたことだった。賀来が突っ掛かりながら言うと、結城はほんのわずかに眉をしかめる。
「いつだ」
「約束の時間通りだ。……伝言も、伝え、た」
「そうか。なら車が見つかるのは明日か明後日だな」
 美香に私用で出る旨を伝え、賀来が出掛けたのは夕方だ。手に持っていたのは、あの刑事の遺体が乗った車の鍵ひとつだけ。帰ってきて、まさか新聞記者に会うとは思わなかったが。
「何事も最後までやらなきゃ、苦労はわからないからな。だが車の免許くらい取れよ、清く貧しい神父さん」
 低く笑った結城の手がのど元に掛かって、賀来は視線を動かした。
「結城」
「なんだよ」
 面倒そうな声が答えて、首筋に生温かいものが触れた。鎖骨の辺りに噛みつかれて身体が震える。シャツの下に潜り込む手を感じながら、賀来は恐る恐る手を持ち上げて、覆い被さる結城の身体にそっと触れた。
 あたたかい。
「……なんでもないよ」
 賀来は唇を震わせながら目を閉じ、身体から力を抜いた。

           4

 こめかみからの出血が止まらなかった。
 ぼんやりと外を見ているうちに、また溢れた血が頬からあごへと滑り落ちて、賀来は機械的な動きでそれを拭った。誰かが持たせてくれた白いタオルはすでに赤くなっていた。
 ――結局、俺は誰も救えないのか。
 車の走行するかすかな振動を感じながら、賀来は目を閉じる。
 美香と養護施設の子供たちを巻き込んでしまった。それが辛かった。あの子には、あの子供たちには何も罪がない。ただ俺の近くに居ただけだ。……ただ、それだけだったのに。
 結城がMWを使うというのなら、亡くなるだろう数多くの命すら、賀来は背負うつもりで居た。
 彼を止められないのならそれも仕方がないと思った。
 だが、その決意すら、結城の前では無駄だった。
 一緒に死のうとして失敗し、身体にまとわりつく黒い海水の中で、賀来は諦めては足掻き、足掻いては諦めた。自分が生きたいのか死にたいのかすら、わからなかった。死の冷たい安寧を望み、結城の狂気や罪を背負って生き続けた悲しみに打ちのめされながらも、賀来は海水の中で藻掻いた。
 もう頼れないと悟った神に、必死に祈りを捧げている自分に気付いた時、賀来は海から上がっていた。
 疲れ切っていた。呼吸することも辛かった。
 生きている実感がわき上がったのは、左腕に負った傷が痛み出したからだ。
 あぁ、神よ、と空を仰いで、賀来は胸の十字架を握り締めた。
 神の思惑は計りがたいと知っているはずだった。だが知っていても、その行いにいつも打ち震える。賀来は素直に神に感謝した。生きていることをただ喜びながら、そして、気がついた。
 祈っていたのは、他でもない。
 結城のことだ。
 自分が死に、この世でただ独り生きていく結城のために、祈っていた。
「……!っ」
 不意に左腕の傷が疼きだして、賀来は思わずそこを押さえた。きつく握り締めて痛みで痛みを殺す。それからぼんやりとした目をあげ、賀来は何となく、がらんとした警察車両の車内を眺めた。
 公衆電話から警察に連絡したあと、入れ替わり立ち替わり多くの人間に色々と質問された。賀来は知っていることをゆっくりとだが、すべて話した。もうそれしか、ただ自分の近くにいたために巻き込まれた美香や子供たちを助ける手段はなかった。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w