【 「 MW 」 】
沢木と名乗る刑事が来た時には、繰り返される質問に疲れ切り、怪我をした身で泳ぎ続けたこともあって喋ることも億劫になっていた。だが沢木は真剣だった。しかも彼は結城のことをよく知っているようだった。結城が、すでにモンスターのように狂っていることすら、察していた。
入国が許可されたと米兵が伝えに来た時、賀来は不意に結城の一言を思い出して、寄り掛かっていた背もたれから身を起こした。
――あの橘って男、俺をタイで追いかけ回した沢木の部下だったんだな。
幻の血の臭いが鼻を突き、苦いものがのどを塞ぐ。
それを振り払い、賀来は立ち上がろうとして、足の痛みによろめいた。降車口で米兵と話していた沢木が気づき、戻ってこようとするのを手振りで押さえ、真っ直ぐに立った。沢木を見つめ、どうにか言葉を押し出す。
「橘さんを殺したのは、……私です」
「!っ」
一瞬、唖然とした沢木は賀来の顔を見つめ、何かを怒鳴ろうとして、声を飲み込んだ。話していた米兵を乱暴な手振りで遠ざけて賀来へ身体を向ける。怒りで顔が赤くなっていた。
「どうしてだ、なんであんたが橘を――」
それは、と説明しかけて、賀来は言葉に迷った。どう言えばいいのかわからなかった。震える手をきつく握り締める。
「本当に、申し訳ありません。……結城を、止められなかった」
沢木はしばし黙り、刑事の鋭い目で賀来を見つめた。
車外の騒がしさが増していく。
また英語で外から声を掛けられ、沢木は荒い声でちょっと待ってくれと叫んで、賀来を観察するように眺めた。
「……タイに電話を掛けてきたのも、あんただったな」
賀来は小さくうなずいた。
沢木の声が抑えきれない怒りで歪む。
「橘だけじゃない、荒川沿いで見つかった荒木、タイで死んだ岡崎とその娘、LA新世紀銀行の山下、それに沖之真船島で射殺されていた牧野京子、あんたたちの回りには死体ばっかりだ」
「――――」
「あんた、神父だろう。どうしてもっと早く通報しなかったんだ」
それは数多い質問の中で、一度も、誰も訊ねてこなかったことだった。賀来はゆっくりと目をあげ、沢木を見た。自分でも疲れ切った笑みを浮かべているのがわかった。
「……わかりません。自分でもわからないんです」
「あんたは――っ」
沢木が怒鳴りかけて、唐突に、言葉を切った。罵声を覚悟していた賀来は刑事の顔を見直す。車内の明かりは十分ではなかったが、沢木の顔を確かに、隠しきれない悲しみが過ぎった。
「……MWのことは、聞いた。日本政府もアメリカも認めないだろうが、とんでもない体験をしたあんたたちだけを責めるのは酷だとわかってる。だがたとえそれでも、他にも道は、あったはずだ」
沢木が自分に同情している。
少し遅れてからそれに気が付いて、賀来はどうしていいのかわからず、困り切った笑みを浮かべた。
十六年前からずっと、頼れるのはともに生き残った結城だけだった。確かに村越神父はふたりの命を救い、生きる道を敷いてくれたが、彼は聖職者だった。すべては神の御心。そう信じる神父からは、運命を受け入れるようにとの言葉はあったが、切り開けと言う励ましは出なかった。
賀来は知らず胸の十字架を探り当てようとして、その手をきつく、握り締めた。
――だがたとえそれでも、他にも道は、あったはずだ。
沢木の力強い言葉に、優しくほほえむ美香の顔、はしゃぐ子供たち、それに重なって結城の独り立つ背中が脳裏を過ぎ去っていく。
固めた拳をゆっくりと降ろし、賀来は目前に立つ沢木を見つめた。
「お願いがあります。結城に、もう一度、会わせてください。私が彼の本当の目的を聞き出します」
「あんたが?」
「私に出来るのは、……それくらいです」
結城が美香や子供たちをどうするのかわからなかったが、MWを手に入れた今の彼ならば、本当の目的を語るかも知れない。もしかしたら美香や子供たちを助けることが出来るかも知れない。
賀来は相変わらず疲れ切った表情のまま、考える。……もしかしたら、これもまた、神の下さった贈り物なのか、と。
だが沢木から返ってきたのは予想外の言葉だった。
「あんたはずっと結城の共犯者だった。一緒に逃げないという確証がどこにある」
賀来は絶句した。
何も言葉が続かず、しばらく沢木を見つめて、かぶりを振った。
「……ありません」
沢木は大仰なため息を漏らし、きびすを返して降車口に向かった。
「これはあんた自身のためだ」
せっかく生きていたのだからその命を大切にしろと暗に告げられて、賀来はぼんやりとした目で外を見た。
やっぱり、俺には誰も救えないのか。
少しよろめきながら座っていた場所に腰を落とした。
「本当によかったんです。結城が助けてくれなければ、十六年前に死んでいた身ですから……」
沢木が降車口で足を止めた。ぼう然と外を見ている賀来を振り返って大きく顔を歪める。それに気付いた賀来が沢木の姿を目で追った時にはもう、警視庁の刑事は早足で車外へ出ていた。
ひとり、残されて、賀来は両手の平に顔を埋めた。
のし掛かる絶望に息が詰まる。
結城に、置いていかれた。
もう二度と彼に会うことが出来ない――。
不意にその実感が胸の底から突き上がってきて、賀来は思わず小さくうめいた。この命は彼とともにあるものだと思っていた。それが苦しみでも悲しみでも、彼の側に居られるならば何でもかまわなかった。
結城は数多くの人間を、殺してきた。自分もその独りに過ぎなかったのかと思った途端、俺も殺すのか、と船上で問い掛けた時の、結城の顔が思い浮かんだ。
「……結城」
公衆電話から警察に通報したあと、賀来はずっと、あの時の結城の姿を思い起こしていた。あんな顔の結城は始めて見た。彼が何を考えていたのかはわからない。だがあの場面を思い出すたびに、賀来はひどく苦しく、たまらなく辛くなった。
「Father,Garai.May I enter?」
「い、Yes, please.」
うつむいていた賀来はいきなり外から英語で声を掛けられて、反射的に英語で答えた。応じ、中に入ってきたのは長身のアメリカ人――軍人だった。一瞬、十六年前の悪夢が蘇ってきて賀来は座ったまま後じさったが、その男は気にも掛けなかった。
軍人らしく簡素に、だが無感動に伝えられた作戦を聞いて、賀来はぼう然とした。沢木が自分の提案を受け入れてくれたことに――信頼してくれたことに気付くまで、少し時間が掛かった。
命の保証はしない、と念を押す声に同意すると、警察車両から降ろされて小さなモニターの前に連れて行かれた。同じ映像を沢木や基地の司令官も見ているという。
上からの命令が下ったらあなたを連れて行く、と説明する軍人に軽くうなずいて、賀来はモニターに映った光景を見つめた。
ふたつの容器――、MWを手に入れた結城。
風船の紐を持った子供たち。
強張った顔の美香。
頭の包帯に隠し、小さなマイクを付けられながら、賀来はこれから先を思って小さく身震いした。
MWを手に入れた結城と対峙する。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w