【 「 MW 」 】
だが賀来は手を出さず、当惑しながら結城の姿を探した。
神学校にいた頃からあまり贅沢はしておらず、もちろん外食などもってのほかだった。自分や美香の手作り以外を食べたのがいつだったかも思い出せない。そのような身には明らかに過ぎた食事だ。
それに、かなりの分量があるが、ふたり分あるようには見えない。
「何をしてるんだ。食べろよ。どうせ俺は食べない」
書類を手に戻ってきた結城が面倒そうに促す。
賀来は首を振り、皿とフォークをローテーブルに乗せた。
「お前も食べろよ。また痩せたんじゃないか?」
突然、動きを止めて、結城は賀来を横目で睨んだ。思わず身を正した神父を睨みながらテーブルの傍らに立つ。結城から漂う冷ややかな気配に気圧されて、賀来は身を強張らせた。
「さっさと食べろ。いいな、賀来」
「――――」
「お前が食べなければ捨てる」
それで話は終わりだと言わんばかりに、結城は差し向かいのソファに腰を落とした。その手にはグラスがある。かすかに漂ってくる酒の匂いに賀来は思わず心配げな顔を作った。
空腹に酒をあおって身体にいいはずがない。
ましてや結城の身体は……。
「――――」
ふと、また結城に睨みつけられていることに気がついて、賀来は渋々と紙袋からパックを取りだした。ひとつひとつを並べながら「あの子たちにも食べさせてあげたい」と施設の子たちを思う。
まず祈りを捧げ、ためらいながら口に入れたサラダはそれでも美味しくて、賀来はゆっくりと味わって食べた。
「荒木。岩崎。山下だ」
「……え?」
「前にも話しただろう。次のターゲットだ。計画もほぼ固まった」
半ばまで食べ終わった頃、いきなり結城が切り出して、賀来は手を止めた。結城は二杯目のウィスキーを舐めながら窓の方を見ている。横目でちらっと賀来を見た。
「なんだ、いつものように止めろと言わないのか? 説教好きの神父さん」
「……もちろん止めて欲しい。止めて欲しいに決まってるだろ」
一気に食欲が失せた。
フォークを置いて、賀来は結城を見つめた。
「頼むから無理をしないでくれ。お前は無茶の出来る身体じゃないんだ」
「俺をそんな身体にしたのは誰だ!」
いきなり結城が声を荒げた。自分のことを言われた気がして賀来は息を詰める。だが結城は両手でグラスを握り締め、険しい目で壁を睨んでいた。
「あいつらが俺たちの家族を奪い、あの日の出来事をすべて葬り去った。許せるわけないだろう! お前は許せるというのか?」
「お、俺は……」
「あぁ、お前は許すかも知れないな、なにしろ神父さまだ。その服がよく似合ってるぜ」
賀来ははっとして自分の胸元を見下ろす。吉田夫婦に出会わないため、急いで出てきたせいで着替えそびれていた。胸に提げた大切な十字架にそっと触れて、賀来は背筋を伸ばす。真っ直ぐに結城を見た。
「彼らを許せないお前の気持ちもわかる。だが誰かを恨み続ける限り、心に平穏は訪れない。……それ以上、苦しまないでくれ」
「苦しむ? バカを言うな。俺は十分に充実しているぜ。この命を賭けてもやるべきことがあるんだからな」
「結城……」
「早く食べろ」
また唐突に会話を打ち切って、結城はグラスを手に内に籠もってしまう。
賀来は息苦しさを覚えながら目の前にあるパックを見下ろした。もう一口だって食べられそうにない。だが残せば、結城は先ほどの言葉通り、あっさりと捨ててしまうだろう。神父である賀来にはたとえパンの一切れであれ、無駄にすることは出来なかった。
無理やり、胃に収める。
出来れば結城とこんな話はしたくなかった。
前のようにどうでもいいことを――ささいな毎日のことを話して、笑いたい。
だがそれは、もう出来ない。
今日のように話すことすら難しくなるかも知れない。
賀来は顔を歪めながら黙々と食べ続けた。
3
息が出来ない。
苦しい。
賀来は闇の中で藻掻いて、口を塞ぐ何かを取ろうと足掻いた。だが後ろから回された手が――小さな手が容赦なく布を押しあてて、呼吸を奪う。止めてくれ、とのどの奥で声なき声を上げた時、はっきりした声が耳もとで言った。懐かしい結城の幼い声が。
「吸うな」
全身が凍り付く。
「風を吸うな」
十六年前。
沖之真船島。
大切な家族が、大切な人々が突然死んでしまったあの夜! 賀来は半ばパニックになって手を外そうと暴れた。違う、違うんだ結城! 俺を助けないでくれ! お願いだから俺のことより自分を救ってくれ……!
「結城!ッ」
誰かの叫ぶ声が聞こえ、やわらかなベッドから弾かれたように起き上がって、賀来は気付いた。
叫んだのは自分だった。
またうなされていたらしい。
悪夢の名残が額に汗を滲ませる。なぜか口の中がひどく苦かった。賀来は思わず顔を歪めて、まだはっきりとしない意識の中で周囲を見回した。
そこは何度か入ったことのある結城の寝室で、賀来は上着を脱いだYシャツ姿でベッドの上に横になっていた。どうしてここに寝ているのかよくわからない。髪を掻き上げてリビングの方を見て、全身が強張る。
そこに結城が立っていた。黒のタンクトップと身体にぴったりとあったズボン。その格好で壁により掛かって腕を組み、ベッドの上にいる賀来を見下ろしていた。
「結城……」
かすかに目を細め、結城は壁から背中を引き剥がす。
賀来を表情もなく見返した。
「ひどくうなされていたな」
「……あ、あぁ」
「待ってろ」
いったん姿を消した結城は、すぐにコップに水を入れて持ってきてくれた。礼を言いながら受け取って、賀来は気付く。あの手袋をしていない。伺うように見やると、結城は早く飲めという風に軽くあごをしゃくった。
冷たい水がのどを滑りおりる。
それは身体のどこかに残っていた悪夢の欠片を洗い流し、口の中の苦みを消し去ってくれた。賀来はほっと安堵のため息を漏らしながら、改めて結城を見る。部屋の中が妙に静まり返っていた。
「もしかして、もう、暗いのか?」
「十時を過ぎてる。よく寝ていたな」
なぜ俺は寝ていたのだろう? そのあたりのことがよく思い出せない。手の中にあるコップを何気なく見下ろして、賀来は不意に大きく目を見開いた。弾かれたように結城を見ると、その端正な顔にはからかうような色が浮かんでいた。
「相変わらず弱いな。酒の一口でぶっ倒れるなんて」
「あ、れは」
「酒にも逃げられないか。本当に面倒なヤツだな、お前は」
賀来はどう答えて良いのかもわからず、うつむいた。
――あの気まずい会話の後のことだった。
結城はしばらく酒を舐めてから、悪夢は続いているのか、と賀来に聞いた。そこには神に縋っているのに逃げられないのかという皮肉な響きもあったが、賀来は素直に「毎晩見ているよ」と答えた。
「まだ忘れられない。いや、……今はもう、忘れたくないのかも知れないな」
あの島で無惨に殺され、その死すら葬られてしまった人々のために。
それを聞いて結城はしばし沈黙していたが、いきなり立ち上がって、賀来にウィスキーの入ったグラスを突きだしてきた。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w