【 「 MW 」 】
5
白い光が溢れていた。
目が、痛い。
賀来は朝日の中で目を覚ました。
――それは恐らく、何度目かの目覚めだっただろう。
一度目はぼう然としたまま、また闇の中に戻っていった。二度目は何かを話したような気がするし、気のせいだったかも知れない。
それが何度目の目覚めなのかわからなかったが、賀来がはっきり自分が生きていると気付いたのは、朝日が眩しくて目が開けられない中でのことだった。
あまりの眩しさに細く目を開けて、重すぎる右腕をあげ、目を庇う。
足もとの方で誰かが立ち上がった。
「素晴らしいな、神父さまはちゃんと朝に目覚めるのか」
少しからかうような声のあとに、部屋の中がいきなり、うす暗くなる。
カーテンが閉められたのだと気付くまで、かなり時間が掛かった。
あげていた右手を落として、賀来はすぐそばにやってきた結城を、見上げた。
白いタンクトップの下に包帯を巻いている。
「ゆ、……き?」
「ずいぶんと遅いお目覚めだったな、賀来。待ちくたびれたぞ」
俺は結城との約束に遅刻したんだろうか?
慌てた賀来は思わず起き上がろうとして、左腕が重たく動かないことに気付いた。布団の下から現れた腕がギプスで固められている。
結城の素っ気ない声が説明した。
「尺骨が折れてた。動かさずにいればすぐにつながるさ」
「……折れ、て?」
すべての記憶が、揺らいでいる。
何が何だかわからなかった。
賀来はやわらかい枕に混乱する頭を押しつけて、傍らに立つ結城を見上げた。
軍用機の中、無我夢中でMWの容器を掴んだような気がする。震える手で結城に銃を向けたような気がする。だがすべて夢の中の出来事のように、はっきりしない。
「……なに、が、」
色々と質問をしたいのだが渇いているのどに声が引っかかった。それに気付いたのか、結城が「待ってろ」と言いながら身を翻し、すぐに水のペットボトルを持って戻ってきた。軽く中身を煽ると、身を屈めて賀来の首の裏に手を入れた。
ゆっくりと流れ込む水が気持ちを落ち着かせてくれる。
三度、口移しで水を飲ませてもらい、賀来は軽く一息吐いた。
それから改めて結城を見上げた。
「……結城」
ペットボトルに蓋をして、近くに置いた結城がゆっくりと、覗き込んでくる。
ほんのかすかに笑った。
「あぁ、お前、やっと俺を見たな」
「神父さま!」
背後から聞こえてきた呼び声に、黒い大型のワゴン車に寄り掛かって曇り空を見ていた賀来は身を起こし、振り返った。
八歳くらいの女の子が駆けてくる。
少女は賀来の横を通り抜けると、歩道の向こうにいた一人の男にたどり着いた。
ふたりは親子なのだろう。
女の子は若い男の腕にぶら下がり、甘えるように身体をなすり付ける。
先ほど聞いたのは美香の声の幻聴だったのだと気付いて、賀来は再び、背中を車に押しあてた。
まだ結城は戻って来なかった。
結城は誰か――協力者らしい――と会う時は、絶対に賀来を連れて行かない。一時間ほどは車の中で待っていたが、息が詰まった。
賀来は被った帽子のつばを引き下げて、ポケットから引っ張り出した真新しい携帯電話を開けた。
やはり、連絡はない。
薄曇りだが、時折、小雨がアスファルトを濡らしていた。
目を上げた賀来は小さな公園に面した道路を眺める。
賀来が目覚めたあとの結城は、これまでに立ててあった様々な計画を、着実に実行し始めていた。数多くの協力者が居ることにも驚いたが、徹底的に他人を利用して、必要なくなれば始末する非情さに心が痛んだ。
だが、心は痛んだが、賀来はもう教会に行くこともなければ、神の前でひざまずくこともなかった。身に染みついた祈りは今も続けているが、結城の犠牲者たちの冥福を形式的に祈り、あとはただ、祈った。
神の名前もつぶやかず、この世界を導いている何かに、祈る。
何を祈っているのかは賀来自身にもわからない。
時には結城のことだと思い、時に自らの愚かさだと思い、置いてきてしまった施設の子供たちや美香のことだと思う。
「……かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」
頭の中にぎっちりと詰め込み、使ってきた言葉。
神を頼らなくなった今でも引用できる。
だが、昔ならば着実に心に響いていた聖なる書の一説は、今では普通の言葉になってしまっていた。どの一節を引用しても何も感じない。心がざわめくのは結城の姿を見ている時だけだ。
――あなたが神の慈愛のごとく、救いたいと思う人を心から愛することです、ブラザー・賀来。
――救いたいと願い、祈ることはわたしたちが考えるほどに、崇高であるばかりではないのです。
今ならわかる。
あのイタリア人の神父は、知っていたのだ。
時に、神へと向ける想いが、他へと向かうべき目を塞いでしまうことを。
「……結城」
小さく名前をつぶやいて、賀来は目を閉じる。
心から愛することです、と彼は言った。
もしも、神に縋ることなく――あんなに遠回りせずに彼と向かい合っていたら、結城はこの世界を恨まなかったのではないかと、賀来は思うことがあった。
結城の向けてくる、異様なほどの執着が何であるのかは、まだ賀来にわかっていなかった。
だが結城が執着するのはMWと自分だけだ。
MWは彼にとって悲劇のすべてであり、変化のすべてであり、この世の憎しみのすべてだった。MWの影響のない人生は結城にとってあり得ない。だからこそ結城はあんなにもMWを欲しがったのだろう――MWに縋ったのだろう。
MWが神経ガスでも何でも、よかったのだ。
結城はMWを手に入れなければ自由になれなかった。自分を変えてしまった存在を手にせずに死ぬことは、結城にとって自らを無意味と決めつけられるようで、耐え難かったのだろう。
その生きた証を望む切実な思いが、残忍な復讐に塗り変わってしまったのは、MWの影響なのかも知れないが。
また落ちてきた小雨が顔に当たって、賀来は目を開けた。ふと何かに呼ばれたような気がして振り返る。霧雨のような淡い雨の向こうに待ち望んだ姿があった。
賀来はワゴン車から身を起こし、待った。
「中にいれば良かっただろう」
外にいる賀来を見て、結城は不機嫌そうに顔をしかめた。現在、指名手配を受けているのは結城だけだが、賀来の名や顔も世間に出ている。
帽子を脱ぎ、賀来は真っ直ぐに結城を見た。
「いいだろ。お前を待ってたんだ」
「……濡れるぞ」
後ろのスライドドアを開けて、結城が軽くあごをしゃくる。うなずいた賀来は乗り込もうとして、脇に立つ結城を何気なく見、身を凍らせた。発作だ。見ている間にも目の縁が赤くなり目が充血していく。
「結城」
思わず肩を掴む。細い身体が揺れ、突然、糸の切れた人形のように寄り掛かってきた。賀来はその身体を抱いて車内に引きずり上げようとした。ふたりしてもつれるように後部座席に倒れ込む。
「は、やく、……閉め、ろ」
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w