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【 「 MW 」 】

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「俺は目の前にいる子供たちにすら満足に手助けも出来ない。でもお前は頭もいいし、人のことがよくわかる。人の弱さも強さもわかるよな。俺だって、お前がいなかったらここに居なかった。お前の方が絶対にいい神父になったと思うと――」
「いい加減にしろ」
 それまでの人を食ったような態度をかなぐり捨てて、結城が低くつぶやいた。賀来は口を噤んで真っ直ぐに彼を見つめる。
 結城はいつも、もしも、という話を嫌がった。以前も、もしもMWが無ければ今頃、俺たちは何をしていたんだろうと言った時も、同じように遮った。
 しかし結城にどれだけ拒まれようと、この十六年、賀来はいくつもの「もしも」を望んできたが、もっとも強く望む「もしも」は常にひとつだけだった。
 ――もしもあの晩、自分が結城にシャツを貸して、彼がMWを吸っていなければ。
 彼を救えなかった自分の罪を、賀来は何度、神に懺悔しただろう。
 彼から奪ってしまった命の重み。
 震える指先で、賀来は胸に提げた十字架を手の平に握り込んだ。 
「結城、……俺は何があっても、絶対に神を捨てない」
「神を裏切っているのに、か?」
 あぁ、そうだと賀来がうなずくと、結城はまた表情を消して居たたまれなくなるほどの冷ややかさを見せた。ゆっくりとソファから降りて賀来の間近に立つ。それを見上げながら、賀来は十字架をきつく握り締める。
「地獄の業火に焼かれようとも、俺は捨てない」
 言ってからそっと、心の中で付け加える。
 お前を。
 結城、お前のことを、俺は絶対に捨てない――。



 十年前。
 賀来は否応なく、神を裏切らざるを得なかった。
 今になって思い起こせば、あれらの出来事は数珠のようにつながっていて、どれが欠けても今の結城も賀来もなかっただろう。現在がどのような形になっていたにせよ、十年前がひとつの転機であったことは、間違いない。
 その頃の賀来は結城の決断に心を悩ませていた。
 あの地獄の半月を経て、ようやく手に入れた平穏――聖ペトロ学園の、聖ペトロ高校を卒業するにあたって、賀来は村越神父の望み通り聖職者の道を選んだが、結城がカトリックの棄教を決めてしまったからだ。
 どうしてなのかと訪ねても、結城は答えなかった。
 ただ、神を信じられなくなったとだけ、告げた。
 そして賀来以上にそのことを気に掛けたのは村越神父だった。沖之真船島から自分たちを救い出してくれた神父。賀来が結城の決意を告げると、神父は驚くほど動揺して、結城をどうにか説得しようとした。
 ――その時、心のどこかで気付いてはいたが、賀来は結城が少しずつ変わってきていること、彼が良心を失いつつあることをまだ受け入れられてはいなかった。
 時折見せる、恐ろしく冷ややかな一面。
 だがまだその頃の結城は微笑みもしたし、賀来を気遣うことも、孤児たちと楽しげに遊ぶこともあった。どうしてもあの経験があるために、互い以外に心を開くことは難しかったが、学園の同期と将来について話し合ったりもしていた。
 しかも結城が説得にも応じない中で、どうやって知ったのか沖之真船島について聞き出そうとする記者が現れて、ふたりは動揺した。特に嘘を吐けない賀来は口を噤むことしか出来ず、結城が追い払ってくれなければ何かを喋っていたかも知れない。
 やがて、風の噂でその記者が事故に遭ったと聞いたが、賀来はそのことを深く考える間がなかった。
 村越神父が逝去してしまったからだ。
 神父の死は賀来を叩きのめした。結城は神と自分のもとを去ろうとしていたし、恩人の神父は天に召されてしまった。自分はこれから、たった独りであの地獄を背負って生きていかねばならないと思うと夜も眠れず、体重も激減した。
 不眠に思いあまって、村越神父の遺志を継がねばならないという義務感もあいまって、賀来が結城のもとを訪れたのは卒業式の夜だった。
 すでに結城は東大の経済学部への入学を決めていた。
 それでもどうしても引き留められずにはいられず、無理を言って部屋に入れてもらった。お願いだからともに聖ペトロ大学に行こうと言い募ると、結城はそれまで守っていた沈黙を、唐突に破った。
「神は俺たちに地獄を見せた、そんな神なんて信じられるか! しかも神は俺たちから家族を奪ったんだぞ? お前だってまだ悪夢を見ているんだろう!」
 神は乗り越えられない試練を科さない。
 いつか必ず克服できると言うと、結城は鼻でせせら笑った。
「そういうお前が乗り越えられていないじゃないか。俺は神になど縋らなくても生きていける。まず自分であの悪夢を乗り越えてから言え、賀来!」
「だが神は村越神父を俺たちのもとへ遣わしてくれた。彼が居なかったら俺たちだって生きていられなかったじゃないか」
「単なる偶然だ。神の御技じゃない」
「偶然にも神の働きはある。あの時、俺たちが生き残ったことにも理由はあるんだ」
「なぜ俺たちが生き残ったのかだって? 決まってるだろ、あの地獄を見るためだ。あの地獄を見て俺にこの世を変えろと命じたんだ」
 その時の結城は賀来が始めて見る殺意を剥き出しにしていた。
 すでにもう発作の兆候はあって、倒れることはなくても、胸の痛みと凄まじい頭痛が結城を痛めつけていた。賀来はなぜ自分がそうならないのかと不思議に思いながらも――結城が命の恩人であることも知らず、ただショックを受けて、愕然と結城を見つめた。
「この世を変える? 一体、何を言ってるんだ?」
「お前にはわからないさ。賀来、お前には一生わからない。神に縋って自分に起きたことを嘆いているだけのお前には一生わからないことだ」
「結城、わかるように説明してくれ。神はお前も見ているというのに」
「神になど救ってもらわなくとも、俺は自分を救えるさ。お前こそ神を捨ててみろ、もっと自由になれるぞ」
「俺は神と共に生きる。神とともにしか生きられない……」
 六百人の命を背負うのは、独りでは到底、不可能だった。ともに生き延びた結城がいたからこそ背負えたのだし、生きてこられた。その事実に改めて気付かされた賀来は思わず結城の腕を掴んだ。
 彼を失っては生きられない。もちろん、神も。
「――なら、俺がお前から神を奪ってやる」
 低い声で結城がつぶやいたのは、賀来が取りすがってからしばし経った後だった。賀来は意味がわからず、間近にある友の顔を見つめた。
 そこには冷ややかに笑う悪魔がいた。
 ――実はあの夜のことを、賀来はよく、覚えていない。
 覆い被さる他者の熱が恐ろしかった。震えのあまり歯の根が合わなかった。結城が縛り上げた手首の痛みがしつこく後に残った。
 神に仕える資格を失ったのだと気がついたのは、翌日、重い身体を引きずって起き上がった時だった。自殺が禁じられていなければ、賀来はその場で舌を噛み切って死んでいただろう。
 結城に裏切られたこと、神を奪われたことに、賀来は絶望した。
 賀来は結城の部屋を抜け出すと、這うようにして学園の礼拝堂に向かった。
 他に行く場所など思いつかなかった。
 踏み入れた瞬間、神罰を受けるかも知れないと恐れながら入ったそこは、いつものように静謐で敬虔な静けさに充ち満ちて、賀来を迎えた。
 それは傷ついた賀来をやんわりと癒した。
作品名:【 「 MW 」 】 作家名:池浦.a.w