いと小さき世界は廻る
「ぅわ!!」
「おっと」
中へ飛び込むと、些か予想外のトーンの声が上がった。
大きく見開かれた鳶色の瞳と正面から目があって、人違いだった事に気付く。
…そういえば、絶対あっちだと思っていたから、さして気配を探る事もしなかったような気がする。
「モクバ?」
「ちょ…ッ何て登場の仕方するんだよ、びっくりするだろ!」
「ああ、悪い。…お前だと思っていなくて」
この辺りの地域、そしてこのドミノの街の領主、海馬家の一員といえど、相対したのは弟の方だった。
主の異変に気付いたのだろう、護衛兼任で着いてきていた御者が、慌てて様子を問うてくるのに何でもないと返事を返し、モクバは大きく息を付いた。
突然の登場に余程驚いたのか、手にしていたらしいものを完全に放り投げて座席の隅に寄ってしまっている。
当初中にいるのだろうと思っていた人物は、そんな事は絶ッ対にしない。
気配を殺して近寄っている筈なのに、いつ何時どんな風にもう一人の遊戯が現れようとも、いつも手にした書類からすっと視線を上げると、格別偉そうな口調で「遅い」と文句の一つも飛んでくるのが常だ。
予想していた人物と確かに同じ血筋の割に、全然似ていないクリッとした瞳に小さく笑いかけると、もう一人の遊戯は苦笑を向けた。
「てっきり本体が来てるもんだと思ってたからな」
トン、と彼の肩から軽い足音をたてて降り立った遊戯は、屈み込んでいるモクバの膝に乗り上がってちょん、と鼻をくっつけてこんばんはのご挨拶を交わしている。それに漸く落ち着いたのか、相棒の小さな額をそっと撫でて挨拶を返したモクバは、次に続いたその言葉に表情を曇らせた。
「・・・兄サマにはナイショで来たんだ。今日は急な会食で遅くなるって言ってたから」
少しばかり潜めた声に、もう一人の遊戯は僅かに訝しげな色をのせた。
口調ははっきりしたもので淀みない。…だが、内容は彼にしてはとても珍しいものではなかったか。
あれだけ兄を慕い、全幅の信頼を置くこの弟が。それだけで既にただごとではない。
「…何かあったのか」
「・・・これ、確かめに来たんだ」
おずおずと差し出されたのは、一枚の古い意匠の文字のような文様が刻まれたカード。
確かに、見覚えはあった。
…が、これがモクバの手に、つまり海馬の家にあるという事は今となってはありえない。
何故ならそれは…。
つい、とモクバの手からカードを抜き取ると、もう一人の遊戯は文面に視線を落として僅かに目を細めた。
「・・・オレは今更お前の家に送りつけた記憶はないんだが」
声に皮肉な色が混じる。
むしろそれはどちらかといえば苦笑に近かった。
「…やっぱお前じゃないんだな…」
「当たり前だろう」
目前で、く、と赤い瞳がさぞ可笑しそうに細められた。
――――何より。
「オレがあいつに渡したものを、どうして今頃取り返そうとするんだ」
…だよな。
ああ、面倒な事になりそうだ。
「頭痛いぜぃ…」
モクバは多分そうだろうなとは予想していた答えに、がっくりと肩を落とした。
夜にだけ現れる、この遊戯のもう一つの顔。
どんなに厳重に護っていても、気付いた時にはそれは消えている、宝石専門の怪盗としての。
彼は、今まで一度として仕事を仕損じた事はなく、一度としてその姿を目撃された事のない存在として名を馳せていた。狙うのが主にお高くとまった貴族達や豪商といった者たちばかり、という点も市井を沸かせている原因でもあるだろう。別に何かをした訳ではないのに、いつの間にか義賊のように扱われているのは少々遺憾ではあるのだが。
まぁ、遊戯たちの個人的な事情により時折行われているそれが、何年も前から巷を騒がせている事には違いない。
そのカードは、その時に使われる予告状としてのものとそっくりだった。
「…ふざけてるな。人の真似して何のつもりだ」
だが、今回に関しては狙ってきたモノがモノだけに、そこの所の容疑は最初から晴れている。
あくまでそれは2人の遊戯と、海馬家の兄弟の間でしか通じない事ではあったが。
そんな事は、誰だか判らない犯人は知る由もないだろうけれど。
ああ、だがそんな事はどうでもいい。
まず第一に狙われているものの方に問題があった。
『【望むは蒼き龍の瞳】…か。・・・せめて狙われるのが別のものだったら良かったのにね・・・』
それにいたっては、遊戯の方も感想は同じ。勿論、もう一人の遊戯にも異存はなかった。
「よりにもよって【瞳】か。・・・これが知れたら煩いだろうな」
『だからこっそり来たんだね、モクバくん』
だが、この時点でモクバが自分たちを呼び出した理由も知れようというもの。
2人はお互いに視線を交わして、小さく笑みを零した。
結局、モクバの行動原理はそこに行き着くわけだ。
ただ一つ、兄の唯一の気に入りを守るために。
「――――では、今回の依頼主はお前って事で良いのか?モクバ」
真っ直ぐに問い掛けると、モクバは強い瞳で頷いた。
「捕まえろ、とは言わないぜぃ。ただ、【瞳】を守って欲しいんだ」
「先に聞いておくが、あいつには黙ったままのつもりか?」
「・・・今は大事な時期だから、あんまり兄サマの手止めたくないんだけど…」
「だが、あいつに隠したままコトを運ぶのは難しいぜ。特にコレに関しては見境ないからな」
『言い過ぎだよ、もう一人のボク』
半身が柔らかく窘めてくるが、口調は笑っている。
言いたい事は判っているのだろう、モクバもほんの僅かな逡巡を見せただけだった。
「・・・わかった。兄サマが帰ってきたらオレが報告して説得するぜ。たぶん、兄サマの事だから保安官とかには言わないと思うけど…」
「だろうな。…まぁ、そこは任せる。・・・オレも折角行き場を見付けたアイツが好き勝手されるのは許せない」
まぁ、辿り着いた「行き場」には一言も二言も言いたい所ではあるが、それは個人の意思の問題なので今更とやかくは言わないが。
すい、と視線を上げたもう一人の遊戯は、赤の瞳を不敵にきらめかせて頷いた。
「今回は報酬は任せる。――――この依頼、引き受けた」
作品名:いと小さき世界は廻る 作家名:みとなんこ@紺