いと小さき世界は廻る
一人暗い場所を歩いている。
兄には内緒で、何度も訪れた所だ。
学校の帰り、買い物に出たついで。兄の側近の一人は、元々彼の側近でもあったから、黙って連れて行ってくれと頼むのは容易かった。
兄は頑なにその従兄との接触を禁じていたけれど、時折、こっそり会いに行っていた。
年が近いというのも関係あるだろうが、不自由な身体のせいで自由に行ける場所は少ないけれど、主に王都に住んでいる、彼の話はいつも面白かった。
この間、彼に会ったのはいつだったろう。
そう、こんな風に廊下を一人で歩いて、手には――――。
「――――…おかしいね。モクバだけ招待したつもりだったのに」
彼の声が聞こえた所で、すぅ、と意識が何処かへ沈んでいくのが判った。
晩餐会の席を離れ、ふらりと城の奥へと導かれるように歩むモクバの跡を追って辿り着いたのは、無数の本の立ち並ぶ書斎だった。
経済・法律・産業・歴史・宗教――――本の種類は多岐に渡っている。書架と言っても差し支えない膨大な数の本の部屋。
その主は、中央に置かれた広い机の向こうに座っていた。暗がりでよくは判らないが、身じろぐと同時に金属が擦れるような音が聞こえた気がする。以前酷い事故に遭ったと聞いたから、恐らく車椅子なのだろう。
年はモクバより少し上くらいだろうか。
頬杖をつき、こちらを見上げる瞳には見覚えがある。
『か、海馬くん…?』
彼の方が明るい色彩だが、その容貌は海馬瀬人に酷似していた。
だが浮かべる表情はまるで違う。整った容貌だが、その瞳に宿るのは、明確な悪意、だ。
「キミが武藤遊戯?」
「名乗りもしない奴に呼び捨てにされる謂われはないな」
「これは失礼。僕は乃亜――――海馬乃亜、だよ」
以後お見知りおき願いたいね。
『もう一人のボク、あそこ…!』
乃亜はクスリと小さく笑みを漏らすと、傍らに佇んでいた人影を側に呼ぶ。
モクバは声に従い、ふらふらとした足取りで乃亜の隣に立った。目には意思の光がない。表情も抜け落ちてしまったかのように虚ろな目をして立ち尽くしている。
キィ、と車輪の音を軋ませて、乃亜はもう一人の遊戯に向き直った。
「キミは瀬人とは折り合いが悪い、と聞いていたんだけれどね。何故今回は首を突っ込む気になったのかな」
「ご想像にお任せする。…それより一つ聞きたい」
「何かな」
「・・・いつからだ?」
乃亜はもう一人の遊戯の視線の先を追い、ちらりと傍らに立つモクバを見遣った。それから僅かに肩を竦めて「最初からかな」と答える。
「夜中に彷徨う人影も、偽の予告状を海馬の部屋に置いたのも、…オレたちに警告したのも?」
「逆に僕の方が聞きたいね。モクバには意識のない状態だから、嘘を付いている自覚がない。そして他の誰を疑っても、モクバを疑う者はいない筈だ。瀬人を思う気持ちは誰がどう見ても本物なんだから。――――なのに、君は途中から気が付いた。あれは何故?」
「…言ってもお前には判らないさ。感覚的なもの、とだけ言っておく」
元々追求する気はなかったのか、ふぅんと気のない返事が返ってきただけだった。
キィ、とまた車椅子が鳴る。
「結局、海馬が目を付けていた側近を操っていたのもお前なのか」
「操って、っていうのは人聞きが悪いな。・・・僕は泣きついてこられただけだよ。手を貸したのは退屈しのぎと、嫌がらせかな」
元々大門は僕の側近だったし。
「一緒になって父様から「家」を奪っておきながら、瀬人が綱紀粛正に乗り出した途端、今度は自分たちの身を守る為に僕に擦り寄ってきたんだよ。ああいった輩は、都合良く自分の記憶を弄る事が出来るらしい」
そこでクスリと乃亜は笑みを浮かべた。
「他にも色々手を貸してくれる人はいたな。瀬人は貴族仲間からも警戒されてるみたいだよ。上はもっとドロドロだしね。…瀬人はそういうの嫌いみたいだけど」
「生憎お貴族様の権力争いには興味ないんでな」
「君は興味はなくても、相手はそうじゃないかも知れないよ?」
身に覚えあるんじゃないのかな、という問いかけにも、もう一人の遊戯は何一つ反応を返さない。挑発に一切乗ってこない彼を一瞥し、乃亜はつまらないね、と息を付いた。。
「今回は利害が一致したけどね。僕は別に遺産にも宝石にも興味はないし」
「じゃあ何故【瞳】を狙った?」
「どうせならお気に入りを狙った方が効果があるだろう?【瞳】にご執心とはモクバに聞いていたし」
ただそれだけのつもり、だったんだけど。
語りかけるのではなく、まるで独白のようだった。
沈黙が落ちる。
晩餐会はまだ続いているようだ。遠くから優雅な調べが聞こえ、人々のざわめきが伝わってくる。
その中にあって、この部屋は完全に異質だった。
明るい表の舞台から、完全に取り残されたような。
クス、
不意に空気を振るわせた音に不穏な気配を感じて、遊戯達は僅かに身構えた。
『もう一人のボク…!』
「・・・・・・。」
机の下から、ゆっくりと乃亜の手が上がる。手には鈍色をした冷たい鉄の塊が握られていた。銃口は真っ直ぐにこちらに向けられている。
カチリ、と撃鉄をおこす音がやけに響いた。
「ねぇ、遊戯。帰って瀬人に伝えてよ。君は何でも手に入れた。そしてこれからも多くを掴む事が出来るだろう。――――だから、一つくらいは僕が貰う」
「…生憎、責任持って連れて帰ると言ってあるんでな。違えれば一体何されるか」
「ここで引かなければ君が無言の帰宅をするだけだよ」
「――――そいつはどうかな?」
ニヤ、と夜目にも鮮やかな紅の瞳が細められるのと同時、僅かにもう一人の遊戯の右手が動いた。途端、引き寄せていた手から感触が消える。
「!」
目の端で、もう一人の遊戯が宙空に現れたモクバを受け止めるのを確認したのと、右手に鋭い痛みが走ったのは同時だった。
突然現れたしなやかな白い身体が、着地と同時に再び地を蹴る。
トン、ともう一人の遊戯の肩に飛び乗ったのは先程まで彼の傍らにいた猫だった。
手元にいたはずのモクバは、今はもう一人の遊戯に抱えられている。
「――――あばよ」
もう一人の遊戯は鮮やかに笑った。
リィン、と澄んだ音が響き渡り、次の瞬間にはその姿がかき消える。
確かに先程まで彼らが立っていた場所に、一枚のカードがヒラリと舞い落ちた。
カードを拾い上げ、乃亜はゆっくりと口元に笑みを浮かべた。
『よい夜を!』
「・・・流石、『教会』が目を付けてるだけはある、かな」
彼は引き際を間違えなかった。さっさと対象を確保して安全圏へ待避する辺り、なかなか鮮やかな手並みだったと言っていいだろう。
「今回は僕の負けにしておいてあげる。――――また会えたら良いね」
作品名:いと小さき世界は廻る 作家名:みとなんこ@紺