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この手に在るもの

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 エドは一瞬引き返そうかと踵を返し掛けたが、町に戻ったところでどこに行くわけでもなかったことを思い出し、結局そのまま丘の方へと踏み出した。
 軽く息を乱しながら、見た目よりも傾斜のきつい坂を上りきると、そこには一面の牧草地帯が広がり、淡い緑色の草原にところどころ羊などの家畜が放牧されている。
 酷く優しい光景だと思った。そして、以前この景色をみたことがあるような、何故か懐かしいという感傷に襲われて暫く記憶を手繰っていると、その感傷の正体に思い至り小さく笑みを浮かべる。
 懐かしいと思うはずだ。なぜならこの風景は、
(リゼンブールと、同じ景色なんだ)
 遠く、遠く離れてしまった故郷に。
 通り抜ける風も土の匂いや草いきれも、どこからか微かに漂ってくる食べ物の香りさえ、記憶の中の思い出を刺激する。けれど、そう揺さぶられれば揺さぶられるほど、このどうしようもなく浮かんでくる衝動を堪えることが出来なくて、エドはすべてを閉じるように眼を伏せ、両手で自分を抱き締めた。
 固く、身を凝らせたエドの周りに、風が静かに流れ、そのの長い黄金色の髪を攫っていく。
 どれほどの時が過ぎたのか。ゆっくりと経過する時間とともに、エドの抑え難かった激情も鎮静化していき、指が強張るほど緊張していた身体から次第に力を解いていった。けれど、以前瞳は閉じたまま。
 静かだ、と、そう思う。
 吹き抜ける風の音。
 翻り棚引く服が立てる音。
 遠く離れた、鳥や羊の嘶き。
 そよぐ草のざわめき。
(まるで、帰って来たみたいだ)
 眼の裏に懐かしい顔が浮かんでは消えていく。
 栗色の長い髪を束ねて、どんなに辛くても笑顔を絶やさなかった母。
 気が強いくせに泣き虫の幼馴染み。
 口は悪いけど、いつも温かいご飯を用意して迎えてくれる優しい家族。
 自分達を教え、導いてくれた師匠に寡黙な亭主。
 白い墓標、手向けの花。
 賑やかな東方司令部。
 そして――――。
 エドはその影が浮かび上がる前に、ゆっくりと瞼を開けて眼前に拓かれた景色を見た。
 暗闇に慣れた眼には、外の世界は眩し過ぎて眼が眩む。
 差し出された大きな手を思い出す。それを弾いたのはいつだっただろうか。夕暮れの中、二人っきりで。それほど前のことではないはずなのに、酷く昔のような気がしてならない。
 疼く胸は、こんなにも鮮やかに苛むのに。
(……少し老けたくらいで、そんなに変わってなかったな)
 青い軍服を纏って走る姿は、あの頃と何一つ変わらないまま。あの大きな手も、腕も、深みを増す黒い瞳に穏やかな声すらも。
 いつだって簡単に触れることが出来たのに、それはもう自分のものではなくて。
 鈍い痛みを無視するように、ろくに言葉も交わさず門を潜った。
 バカだと思う。もう二度と会うことはないと判っていたのに、『ありがとう』も『さよなら』も云えなかった。機体の上、名を呼ばれて心が震えた。刺のある軽口に笑みが洩れ、寄せられる信頼に目頭が熱くなる。
 だから、会いたくはなかった。抑え胸の奥底に沈ませた想いが甦るから。
 離れたくないと、思ってしまう…………。
 そこまで考えて、エドは自分を落ち着かせるように息を吐いた。身体の中から、篭った息が吐き出され変わりに新鮮な空気が肺に送り込まれる。冷えた気体が染みるように身体中を循環していく。それを感覚で受け止めて、エドは再び眼を閉じ、さっきは無理矢理消した面影にぽつりと呟いた。
「……俺も……生きてるって、信じてた」






 ふと、聞き覚えのある声が聞こえた気がして、書類に走らせていた手を止め窓の向こうを眺める。
「閣下?」
 急に気を逸らしたロイの視線の先を追いながら、副官のホークアイは訝しげに窺った。
「……いや、誰かに呼ばれたような気がしたんだが」
 云いながら何かを探すように遠くを見つめていたが、ふと諦めるように一瞬眼を伏せ、窓から部下の顔へと向き直り苦笑う。
「どうやら気のせいだったようだ」
 反射的に浮かんだ顔を掻き消して、再び書類に手を伸ばす。するとタイミングを合わせたかのように、机の脇にコーヒーが入ったカップを置かれ、立ち上ぼる湯気に頬を緩ませた。
 積年の付き合いであるこの部下は、自分を扱う術をよく心得ている。
 休憩を許されたと見做して、早速カップに手を伸ばす。暖められたその白いそれに、いつの間にか固く強張っていた掌の疲労を気付かされた。もう、どれだけの時間を事務処理に費やされたことか。この国は予想以上に問題を抱えていて、今はその対処で寝る暇もない。
 ロイの、さすがに疲労が色濃く出ている顔を見て、ホークアイは何ごとか口を開きかけたが、結局告げるべき言葉が見つからず口を噤む。
 二人しかいない空間に静かな時間が満ちる。緩やかに漂う琥珀の香りだけが饒舌に沈黙を埋めた。
「賭けに、負けてしまいましたね……」
 唐突に小さく呟いたホークアイの言葉の意味が判らず、ロイは視線だけで問い返した。彼女はその意味を正しく読み取って、少し苦笑いを浮かべながら、
「〝彼〟のことです。私は、もしかしたらすでにこの世にはいないのかもしれないと、あの日から思っていました」
 錬金術のことはよく判らない。けれど、彼の姿が消えた換わりに弟が生身に返ったことを知った時、あの小さな錬金術師を見ることは永久に叶わないのだと思い知った。一つの願いを叶えるには、彼一人の代価を必要としたのだと。なんて残酷なのだろう。記憶を失くした弟も、そして貴方も、伝えなければならないことは沢山あったはずなのに。
 哀れむでもなく、悲しむのでもなく、ただ切ないばかりで。消えたエドワード、帰ってきたアルフォンス、そして失い、残された――――。
「生きているのだと信じていたが、実際この眼で確かめるまでは不安だった」
 ぽつりと呟く低い声音に我に返って、『大総統』となった男の顔を見つめる。傾いて茜色を帯び始めた陽の光が窓から降り注ぎ、ロイの横顔を照らしている。視線は手元にあるカップに注がれてはいるが、きっと眼に映っているのは違うものであるに違いなかった。
 リオールの騒動を聞いた時に直感したのだ。きっと彼が関わっていると。どこかで生きていたエドが戻ってきたのかと、そして厄介なことに巻き込まれているならば手を貸してやらなければならない。それが自分に残された役目なのだと。けれど、そんな云い訳のような建前は、あの背筋を凛と伸ばした後姿を見た時に吹っ飛んでいった。勢いよく伸びていく石柱に乗った、記憶にあるよりも一回り成長しているその姿。変わらない機械鎧の手足に、束ねただけの鈍色の金髪は風に靡いて、それでも小さな背中を彩っている。追いついて、こちらを振り向いた瞬間、驚きで見開く大きな眼に映った自分を確認して、射抜かれたような衝撃を受けた。
 その時の感情を、どう云えばいいのだろう。
 身体中を震わせるほどの歓喜、安堵、懐古、そして、後悔。しかしそれらを覆ってあまりある愛おしさで胸が熱くなって、どうしようもないほど彼を求めていたことに、今更思い知らされ動揺する自分が酷く滑稽に感じた。
作品名:この手に在るもの 作家名:桜井透子