【P4】はじめからコインに裏表など
完二の切れるような視線を受けて、しかし馨の影はにっこりした。思いがけない反応を返された完二のほうが声に詰まる。
「な……んだよ、てめっ」
『いい奴だな、完二。花村も、里中も、天城も直斗もりせもクマも』
スラックスのポケットに両手を入れ、影は馨がよくしている、片足へ重心を預ける姿勢をとった。目を伏せて軽く俯いた顔が微笑んでいる。
『俺は本当におまえらが好きだよ。でも春になればお別れだ』
はっと息を呑んだのは全員だ。
それは誰もが考えて、けれど見ないふりで押しやっていた問題だった。春になれば馨の両親が帰国する。そうなれば彼は堂島家を離れ、再び都会へ戻ってしまう。今まで一緒にいるのが当たり前だった姿が日常から消える。いなくなる。
『俺が、一番怖いのはそれだよ。別れが怖い、また一年前の日常に逆戻りするのが怖い』
――否定できるわけがない。馨は震える息を吐き出した。これはまさしく自分の本音だ。
誰かに頼られるのも、何かを依頼されるのも確かに嫌いじゃない。必要とされているようで嬉しいと、それは本心だ。しかしその原因を両親のせいにしていじけていた自覚はまったくなかったから、十七にもなってこんないじけた感情を家族に向けていた事実は馨に羞恥をあたえる。もっと幼い頃はそれなりに不満をもったし、今もそれほど会話があるわけではないけれど、彼らのことは自慢だし敬愛してもいる。理解はしているつもりでいたのだ。
だが影につきつけられた、現実とまったく変わらない自宅を目の当たりにして心が揺らいだ。
都会へ戻っても待っているのはこの空虚だけで、日々はふわふわとした惰性のなかを過ぎていくのではないか。
玄関を開けても菜々子が声をかけてくれることはないし、堂島の生活能力のなさに呆れて小言を漏らす必要もない。登校しても教室には陽介も千枝も雪子もいない。じゃれついてくるりせを構ったり、完二で遊んだり、直斗から出題されるクイズに頭を悩ませることもない。ジュネスへ行ってもクマのきらきら眩しい笑顔には会えない。
『なあ――怖いよな』
思考を読んだとしか思えないタイミングで馨の影は笑う。
影が怒っているのだとようやく馨は気づいた。
挑発するような物言いも、面白おかしく馨の本音をばらして喜ぶのも、長年にわたって無視し続けてきた馨に腹をたてているからだ。存在を否定される恐怖ならば馨は誰よりも理解できるというのに、よりにもよって自分自身からずっと目を背けていた。
深呼吸をしたつもりが、それはただの嘆息となり霧を揺らす。
「……そうだな。怖い」
喪失や忘却をおそれている。それを今自覚しなければいけない。
馨の影は眇めた目尻を僅かに痙攣させた。
「稲羽を離れればみんなに忘れられるんじゃないか。メールとか電話が途切れたら。みんな楽しくやってて俺なんかいらなくなったらどうしよう」
『ガキだな』
「ガキだよ。知ってんだろ」
さんざっぱら同じ存在だと繰り返しておいて今更何を。先ほどの糾弾に比べればそんな物言いは挑発にすらならない。
気を抜けば揺らいでしまいそうな声を必死に抑え、馨は意識して笑顔をつくる。
「最低だ。怖がって仲間を疑ってる。……けどさ」
陽介や千枝、雪子は信じると言ってくれた。
直斗も完二も馨のために怒っている。
これほど自分勝手で、見苦しく不様なところを見せている馨を気遣ってくれる。仲間から向けられる信頼は心地よく、恐怖で凍えた指先にぬくもりを思い出させた。硬くなっていた腕から力がとれる。
「なあ、おまえの言ってることが本当だからって俺が思ってることが全部嘘ってわけじゃないんだろ」
影は答えなかったが、問い掛けながら本当は馨は気づいている。ネクタイを掴み引き寄せた、驚愕で見開かれた欝金のなかにその解答はひそむ。
仲間から忘れられるのが怖いのは馨が彼らを信じているからで、ならばそれは馨の影も同じなのだ。
「おまえが俺で、俺もおまえだって言ったな。……ならおまえだって信じれるだろ、みんなを」
懐疑と信用は天秤の上で均衡を保っている。馨と影と、それぞれの持つコインに一種類の感情しか描かれていないから抑圧せざるをえないのだ。等しい量の感情をそれぞれ分け合って持てばいい。あるいは、コインの裏表に互いの感情を彫りこんでしまう。
影を受け入れなければ、現実世界に霧が出た日、もしかすると馨は死んでしまうのかもしれない。
だが今考えるべきはそんな未来のことではなく、目の前にある現実を馨がどう受け入れるかだ。仲間たちの場合は毎回戦ったあとに本人がシャドウを受け入れていたのでそれ以外の方法が何も思いつかないのだが、とりあえずもうひとりの自分に言葉を尽くすことにする。
「確かに俺には何もなかったよ。空っぽっていうならそうだと思う。でも稲羽で暮らして、花村たちと知り合って、少し変わった気がしてる」
これほど深く誰かに関わったことなどなかった。
様々な人の心の秘奥が暴かれるのを見てきたし、自ら望んで虚構の世界に身を投じた者がどうなるかも知った。そういえば、ひょっとするとシャドウと戦わずに済ませる術のヒントは彼からもらったと言えるのかもしれない。抗うからシャドウが暴れるのだと彼は言っていた。
深呼吸をして、襟元を掴みあげたままの影の瞳をのぞきこむ。動揺をみせたのはほんの一瞬で、それは今はもう表情を殺したしらじらとした顔を馨へ向けている。
「変わりたいと思えた。みんなのおかげで」
仲間のために、叔父と従妹のために、何かしたいと望む自分を知った。未知の欲求を自覚した驚愕よりも心のやわらかなところをくすぐられるような心地に嬉しくなった。
もちろん綺麗な動機からばかりでそれが生まれたわけではないだろう。
影が指摘するように、菜々子に対して向けていた親愛には自慰的な意味も含まれていた。馨がそもそも無償の友愛を振りまけるほど余裕のある人間ではないし、一緒にいたのが菜々子でなければきっと今もそれは変わらなかったはずだ。菜々子のおかげで気づけたことがいくつもある。
「……寂しいときに、寂しいって言えるようになりたい。助けてくれるみんなのことを信じたい。そう思う」
『――それで?』
ゆっくりと首を傾けた影の問いに答える前に、馨は一度深呼吸した。
「おまえは俺で、俺がおまえだろ。……どっちかじゃなくさ。変わっていこう、一緒に」
返答の代わりに沈黙があった。影は表情のない目でまじまじと馨を見つめ、それからふと笑う。馨はその笑顔に父の面影を見たが、単純にその表情は馨の普段づかいのものにすぎない。
『忘れんなよ、その台詞』
襟元の拘束を振り払い、影は馨の胸に拳を置いた。寒気のなかで冷たくもあたたかくもないそれがシャツ越しに伝えてくるものは温度ではない。
頷く馨へにっと笑うと、影は浅く俯いてまどろむように目を閉じた。
作品名:【P4】はじめからコインに裏表など 作家名:yama