あぶりだし
次の日。
空は相変わらず真っ青で、庭の向日葵なんかはもうロケットみたいに上だけを目指してぐんぐん背を伸ばしていた。
出かける用事など一つもなかった。暇なら冷房を効かせた部屋の中で、のんびりと本でも読めばいい。そう思う傍らで、僕はこの焼け付くような日光の中へ出ていきたい気分も味わっていた。
夏というのは厄介な季節だ。
外出には全く不向きな条件ながら、どこか出掛けざるを得ないような心浮き立たせる何かを持っている。からりとした脳天気で底抜けの明るさ。腹立たしい。
蝙蝠傘は、今日も文句一つ言わずに僕のための小さな日陰を作り出してくれた。有難いことだ。
歩き出してみてようやく、公園の彼が気になっているのだということに思い至り、散歩の目的地が決まった。ゆらゆらと熱気をはらんだまま動こうともしない空気をかき分けるようにして、道を行く。
彼はまた、あのベンチに座っていた。
だが今日は一つだけ、今までと違っていることがあった。
これまでは手ぶらでただ座っているだけだった彼が、今日は胡座を組んで何やら手を動かしている。僕は、ゆっくりと蝙蝠傘の日陰を伴い、彼の傍に歩いていった。
彼はこの焦げ付きそうな日の下で、平らなベンチの座面に目に痛いようなまっさらな紙を広げ、細い絵筆を動かしているようだった。
だが、彼の周りに絵の具のようなものは何もない。広げられたわら半紙らしい紙の上にも、色はない。ベンチの上にあるのはただ、口を開いたオレンジジュースの紙パックが、ぽつん。
「あ、こんにちは」
僕に気付いた彼が顔を上げ、あの笑顔でそう言った。
「こんにちは」
反射的に答えると、彼は何がそれほどというくらいに嬉しそうな顔をした。
にこにこと、まるで子供のように無防備に笑っている。
「何を、してるの」
「んとね、あぶりだしの絵を描いてる」
やっていることも、口調も、驚くほど子供じみていた。
呆れてしまった僕がどうしたものかと考えていると、じゃぽん、と彼は手にした筆を紙パックに突っ込み、さっと紙の上に走らせた。染み込む端から乾いていくジュースが何を描き出しているのか、僕からはさっぱりわからない。
ただ何となく、日向で絵を描くのは眩しいだろうと思ったから、僕はもう一歩だけ彼に近付き、筆を動かす手元に持っていた蝙蝠傘をかざしてやった。
「あ」
「!?」
からん、と筆が地面に転がった。
傘が作った影に飲み込まれると同時に、彼の手が溶けるように消えてしまったのだ。
驚いて立ち竦んだ僕を、彼はそうなると知っていたかのように、少しばかり困ったような顔で見上げていた。
「…」
止まった思考の尻を叩いて、僕は恐る恐る傘を動かした。
影が引いて、日の下に晒されると、そこには何事もなかったかのように彼の手があった。それが、落ちた絵筆を拾い上げるのを見守る僕の視線は、穴を開けようかというくらいの鋭さだったんじゃないかと思う。
「オレねぇ、太陽の下じゃないとダメみたい」
「そう…、なんだ。…ごめん」
暑さとは違う意味でカラカラに乾いた喉で、僕は答えた。
そこでようやく、この炎天下で汗の一つもかかず、ジュースを前にして喉を鳴らすこともなく絵の具代わりにしてしまっている彼の異常さに思い至っていた。
彼は小さくはにかみ、またジュースを含ませた筆を動かしていく。
「ねぇ」
「んー?」
「ちょっと、いいかな。足とか」
僕の言葉に首を傾げた彼に、傘を指し示す。すると、彼は少しだけ考える仕草をしたあと、素直にベンチの上から足を下ろして、地面へ投げ出すように伸ばしてみせた。
蝙蝠傘をかざしていくと、その影の縁の形もそのままに、彼の膝から下はさぁっと消えていった。断面はゆらゆら影と混じり合っていてよくわからない。
「痛く、ないの」
「別に」
「こうやってても、足があるように感じるわけ?」
「オレ、今足首動かしてるよー」
目に見えないだけ、ということなのだろうか。
手を伸ばしてみたが、僕の指はすかすかと虚しく空を掴むばかりだった。
「お前、何?」
「陽炎」
思いの外、答えは明確だった。
そして、これ以上はないくらいに納得できる答えだった。
「それで日が陰るとダメなのか」
「うん!」
僕は傘を肩に担いだまま、彼の顔を見下ろした。
ふと浮かんだ悪戯心に任せて、一歩大きく踏み出してみる。
「…」
すっぽりとベンチを覆った蝙蝠傘の影の中、彼の姿はどこにもなくなっていた。
そこにはただ、紙と、筆と、オレンジジュースの紙パックだけがある。
「聞こえるか」
返事はない。存在そのものが消えしまっているのだろうか。
ふむ、と頷いて傘を下ろしてみれば、手品か冗談のように彼はそこに現れていた。変わらない笑顔で。
「今、どうしてた?」
「わかんない。目ぇ閉じて、開いた感じ?」
彼はまた筆を取り上げ、紙の上に見えない線を描き足していく。
あぁ、と小さく息を吐く。今の今まで気付かなかった自分の馬鹿さ加減に呆れ返る。紙の上、筆を動かす彼の手の影は落ちてはいなかったのだ。
「あげる」
「へ?」
何を描き上げたのか、満足そうに筆を置いたかと思ったら、彼はおもむろにそれを僕に差し出した。
彼の顔と、わら半紙とを何度か見比べて、僕は真っ先に浮かんだ疑問を口にしていた。
「なんで?」
「トモダチだから」
いつの間にそんなことになったんだよ。
思いが顔に出たのか、彼は続けてこう言った。
「オレのこと、見える人間少ないから。だから、見えた奴は、トモダチ」
にーっと笑い、決めつけるように断言する。
その言葉が示す意味を理解して、少なからず引っ掛かりを覚えた。つまり今の僕は、他の人からすればこの炎天下でベンチを相手に意味不明の一人芝居をしているように見えているということにならないだろうか。
「…いらない?」
僕の表情から何を読んだのか、彼が目に見えて萎れた顔になった。
しょぼん、と伏せられた目が手の中のわら半紙に落とされる。そのまま破いてしまうのではないかというくらいの落胆ぶりに、さすがの僕にも罪悪感が生まれた。
この暑さだ、多少の奇行も暑さの所為にしてしまえばいい。
「いや、欲しい」
「! あげる!」
満面の笑みとともに手渡されたわら半紙は、水分を吸った名残りで少なからず波打ち、ごわごわとしていた。生成じみた色のある紙だ。今のままではジュースの筆跡はまったくわからない。
「うち帰ったら、炙ってみて」
「そうする」
いい加減、暑さとそれ以外のもので頭が逆上せそうになっていた僕は、遠慮なく彼の言葉に従った。
彼はいつまでもいつまでも、手を振っていたようだった。