心紡
昼過ぎまで眼を開けながら寝ていた俺は、頭の中でカチ、カチという時計の音の回数を数えていた。羊じゃないけれど眠気を誘ってくれそうだったから。大凡次の桁が判らなくなるまで数え、起き上がる。1秒たりとも寝られなかったが、不意に玄関が開く音が聞こえた。一度だけ大きく心臓が鳴るが、ビニールの音や扉を閉める弱い音で落胆する。
紛らわせる事が出来るかもしれないと起きあがり、髪を撫でつける事もせずに事務所に行った。予想通り、机の上にスーパーで買ってきたものを広げる長髪の女が居た。
「あら、居たの? 静かだからてっきり出掛けてるのかと思ったわ」
抑揚の無い声、常ならあんまり好きじゃないそれが逆に今の俺には落ち着いた。臨也と同じくらい整った容貌を持つ助手、矢霧波江が首だけ振り返った。
「なに貴方。ひどい顔ね」
波江が思い切り顔を歪ませる。偽られるよりは正直な方が気分を乱されない俺はふらふらと近付く。そのまま後ろから抱きつくと、今度は心底嫌そうな顔をした。
「私はそういう趣味はないわ」
「俺にもねえよ……ちょっとだけ……体温くれ……」
「断るわ」
緩かった俺の腕からぱっと抜ける。ドライな反応に苦笑した。女というのは恐ろしいほどに強かだが、この女は絶対に攻略出来ない。大して気にもせず頭をかく俺に波江は胡散臭そうな視線を投げた。
「貴方、臨也が居ないからって落ち込んでるの?」
「……。判んねえ……」
「ほんの一日じゃない。そんなので揺らぐようじゃ貴方の愛もその程度ね。私は例え一年間誠二の姿を見れなくたって想うわ。辛いのは誤魔化さないけど」
俺が臨也に依存するように、波江は弟に依存しているらしい。直接そいつと会った事は無いけど、臨也から聞いた限りじゃ余りその想いは報われていないらしい。なら、俺の方が幸せものだと思った。首を傾けてぼんやりしている俺の腕を叩きながら「退いて」と言われる。昼食でも作るらしい。
「一応聞くけど何が良いかしら?」
「……粥」
「今日びの男子高校生が食べるものじゃないわね。具合が悪いの?」
「そうなんだと思う」
とりあえず水気のあるものなら喉を通るかもしれない。そう思っての発言だったが、波江は表情を崩さずに台所に消えた。
ふと臨也のデスクに眼を止める。主人不在のそこは吃驚するくらい閑散としており、導かれるように肘掛け椅子に座った。踏ん反り返るのではなく、両膝を持ち上げて縮こまるように。臨也の視線を貰った気がして少しだけ気分が楽になる。薄らとコロンの匂いがしてうとうとし始める。臨也は今頃新幹線にでも乗っているんだろうか。あいつの事だから先方に迎えを出させているかもしれないが。高校生という身分だが、引き止めるのが叶わないなら一緒についていけば良かったな。
暫くじっとしていると、湯気の立つどんぶりをお盆に載せた波江が現れる。臨也の椅子に座って身を丸める俺に一瞬だけ変な顔をするが、気を取り直したように、そして使ったように、ソファの机ではなく俺の眼の前に置いてくれた。
「悪いな」
「汚したらあいつは煩いわよ」
「気を付ける」
蓋を開けて、葱と卵で彩られた粥に食欲が沸いた。女だけに波江は料理が上手い。エプロンを外しながら波江は髪を揺らした。
「簡単に野菜炒めも作って冷蔵庫に入れておいたから、夜はそれ食べて。足りなかったらインスタントのスープもあるわ。朝はパンで大丈夫ね」
「え……もう行くのか?」
「貴方と違って私は忙しいの」
れんげで柔らかくなった米を掬う手が止まる。不安げに顔を上げた俺に波江は相変わらずの無表情を向けた。
特に何も言わずに鞄を持ち上げ、「時間が取れたらまた明日の昼に来るわ」と言い残して去って行く。本当に俺の昼食を作る為に来たのか。
ぱたりと閉じられた玄関に一層の孤独感を煽られ、一気に食べる気が失せる。れんげを置きかけたが、食べなきゃ臨也は怒るんだろうなと思って無理矢理口に含む。食欲とは関係無く、それはとても美味しかった。
する事が無く、面白くも無いテレビを流し続けて何時の間にか夕方になっていた。何もかもつまらない。別に見ていたドラマに不満がある訳じゃないが、煩わしくなって電源を切る。土曜日とはいえこうなると学校に行っていた方が気が紛れた。
無意識に臨也を探す。
広すぎる家の中に取り残された迷子みたいに身を震わせ、怖くなって、逃げるように引き出しの中を荒らした。引き籠っていた時、動かない俺は眠気も余り誘われず不眠に陥る事が偶にあった。新羅に処方された眠りを促す強い薬品。一粒でうとうとするレベルなので、あとは自発的に眠っていたが、暫く使われていなかったそれを片手いっぱいに掴んで口に入れる。勢いがあって入り切らなかった分がぱらぱらと足元に落ちた。水を飲むのを忘れ歯で噛み、飲み下す。まるで雷に怯える子供のように寒気を覚えた俺はソファに沈んで薬が効くのを待つ。何度も何度も臨也の名前を呼びながら。呼吸が乱れるまで、名前で埋め尽くす。心臓が痛い。ソファを掴んでいた手が、抑制出来ずに骨組みを砕く。強制的に遮断される意識を呪いながら。名前を呼ぶ事すら出来なくなった。掠れた喉。引き攣る身体。身悶える俺はどれだけ滑稽な存在なのか。
臨也の仕事の邪魔をしたくない、そんなの良い子ぶった俺の言い訳だ。
臨也を (好きだから) 独占したい気持ちと
臨也に (殺されたいくらい) 想われたい気持ちが
(明確な悪意の牙を剥いて) 俺を苛む。
結局俺は、嘘を吐けない臆病者。
眼が覚めたのは朝陽が眼を焼いた時だった。
薬によって強制的に眠った俺は15時間近くも意識を戻さず、ソファに寝転んだまま世界の残酷さに涙を零した。
強い朝陽を浴びても、俺は涙を流している事にも気付かず薄く眼を開く。ぼんやりしていて、何も考えられない。後遺症の残る頭には痛みが走り続け、無頓着な俺でも不快な気持ちにはなる。
「……」
薬物の爪痕に気付かない俺は、ソファから転がって頭を強く打つ。いてぇ、と思ったのはかなり経った後。朝というよりは昼に近くなった刻限になり、やっと俺は身体を動かせた。風呂にも入っていない俺は着替えていない。俺の身体に下敷きになっていた携帯は点滅していた。
「……いざ……や……」
喉が枯れていて、しわがれた声が漏れ出す。ぶるぶると震える手でメールを確認する。当然ながら全部臨也からだった。
一件目は午後の6時くらい。内容は俺の身を案じるような、「大丈夫?」という言葉が二回あった。二件目はその一時間後。「ひょっとして寝てる?」と。三件目は食事はとったのかという確認。四件目はどうしたのという旨。五件目は間髪いれずちゃんと眠る事と記載されている。