心紡
内容の半分も俺は理解出来なかった。臨也が考えて打ち込んだ文章という事実だけに癒され、緩慢な手付きで返信する。「今起きた 平気 大丈夫」。普段の何倍も感情の籠もっていない無機質な内容。ひょっとしたらすぐ返事が来るかもと期待して暫く待っていたが、来ないと判断して、待ち受け画面に戻る。ゆっくりボタンを11回押した。続けて発信ボタン。すぐに留守番電話サービスに繋がった。落ち込む俺に、感情の起伏の無い案内メッセージ、そしてぴー、という長い音。俺は黙ったまま電話をただ耳に当て続けた。五分もそうしていた。何か喋らないとと思った俺は、喉から枯れたか細い声を発した。
「……臨也……会いたい」
その声をマイクが拾ってくれたかどうか判らなくて、もう一度だけ囁く。
「会いたい」
さっきよりもほんの少しだけ強く声を出して。
言いたい事が無くなった俺はぐっと指に力を込めて電話を切った。臨也は聞いてくれるだろうか。忙しい時に、嫌がらせのような五分の長丁場を。下手をすれば迷惑電話だと判断して消してしまうかもしれない。それでも良かった。どっち道、あと半日も待てば帰ってくるはず。
臨也が帰ってくるまで時間潰しに眠ろうかと思ったが、がんがんと痛む頭はそれを赦さない。延々寝続けた所為か、薬の副作用か。どっちにしろ眠らないならこんな寂しい場所には居たくない。臨也が帰ってきそうな時間まで外をぶらつくかと思い、よろめきながら部屋に戻って着替えを出す。一日中寝巻きだったそれをベッドに放り出して、カジュアルな八分袖にジーンズを纏い、携帯だけをポケットに突っ込んで靴を突っかけた。
孤独死しそうなくらい静かだった部屋と違い、休日の街中は吐き気を覚える程に喧騒に満ちていた。汚れた空気を吸いながら特に方向は定めずに歩き出した。何処も彼処も黄色い布だらけで、視界に入れないようにしても勝手に眼に映る。何でそんなに色を誇示したがるのかは理解に苦しむが、群がって強くなった気で居るんだろうと適当に解釈する。
どのくらい歩いたか、振り返ってもマンションが見えない所までは来た。結構な距離だ。とは言っても、通りを一本越えればまた見える。来た道とは違う所を通って散歩を終えようと人気の無い路地裏に入った。これが大失敗だ。
半分程進んだ所で、怒鳴り声が聞こえた。勝手に眉間に皺が寄る。これは喧嘩に巻き込まれるパターンだと引き返しかけた所で、近づいてきた足音につい振り返る。予想に反して、曲がり角から現れたのは白い私服を纏った少女だった。物凄く見覚えがあった。
「っ……三ヶ島……?」
少し前に臨也と話題になった娘。顔には焦りの色が浮かんでいた。俺には気付いていない。すぐに、三ヶ島の後を追う形で紀田が姿を現した。どうも二人で居る所で喧嘩を売られたらしいな。
紀田が三ヶ島を古びた看板の後ろに隠すように押し込める。此処でぶつかる気か、と他人事なので平然と構えていると、遅れて五人程が姿を現した。全員、紀田が巻いている黄色のバンダナとは違い青いスカーフを身に纏っていた。何だこいつら。
「てめえ!」
紀田が大声で叫ぶ。以前話した時とは違う、雄々しい男らしい声だった。少し驚いた俺の前で紀田は一人ずつ捌いていく。傍から見ても紀田は喧嘩慣れしていた。闇雲に動き回るんじゃなくて、懐に入って確実に一人ずつ殴り飛ばしている。これが一番効率が良くて正確だ。
臨也に頼る軟弱な中学生という印象を少し改めた俺は助太刀する気は更々無く、傍観者の体でじっと眺めていた。当然紀田も無傷とは行かず、何度か殴り返されてはいたが要領良く全員に膝をつかせた。適わないと悟った一人が逃げるぞと叫ぶ。紀田を通り過ぎ、三ヶ島を通り過ぎ、そして俺の横を通り過ぎる。三ヶ島が紀田に駆け寄るのをじっと見つめていると、視線に気付いた三ヶ島が俺を見て「あっ」と声を漏らした。
「どうした沙樹……?」
両手に膝をついていた紀田の視線が俺とかち合う。ぎょっとした紀田の隣で女は笑顔を作った。
「静雄さんですよね?」
「……。……覚えてたのか」
俺は三ヶ島を忘れていたんだが、こいつは一方的に覚えていたらしい。色々あって俺は三ヶ島が好きじゃない。むしろ嫌いだ。だが、臨也が関心を向けている紀田という存在が引っかかって、俺は立ち去らなかった。
「知ってんのかよ?」
「うん。だって臨也さんの一番のお気に入りだもん、静雄さんは」
「……」
揃って渋面を作る俺と紀田。その間でにこにこと笑みを絶やさない女に俺は嫌悪感を抱く。新羅は別として、無意味に笑っている奴に対して俺は辛辣である事が多い。勿論、新羅は内面をよく知ってるからそう思えるだけであって。
三ヶ島はその口を饒舌にさせ紀田に話しかける。
「基本的に臨也さんって自分の領域には踏み込ませないの。だからわたしも事務所止まりだったのに、静雄さんは当たり前みたいに臨也さんの寝室に入っていくから驚いちゃった。臨也さんが『俺のだからちょっかい出すな』ってわたし達に釘を刺すぐらい大切にしてるんだよ。同棲してるしね」
「臨也臨也煩え。喋んな」
他人の口から零れる名前にどうしようもなく苛々する。それが俺の嫌いな女ともなれば。紀田が反応する前に俺は三ヶ島の言葉を遮っていた。三ヶ島は特に驚く様子も無く、微笑を湛えたままごめんなさいと素直に謝った。
紀田は切れた唇を舌で舐めると荒々しい口調で俺に質問を投げた。
「あんたは何で臨也さんと一緒に居るんですか?」
「てめえには関係ねえだろ。何かあれば臨也に頼って迷惑なんだよ、つかてめえが臨也の名前を口にする度に腹が立つ。お前が居なきゃ、臨也は、俺は……」
大きく舌打ちし、最近の怒りの現況になっている目の前の二人を思い切り睨む。気に入らない、気に入らない。臨也はこいつらの何が良いんだ、面白いんだ、興味があるんだ。
今にもキレそうな俺にそれでも紀田は、馬鹿みたいに、間違っていない事を突きつけた。
「何かあれば『臨也』、って。それあんたの事だろう」
「……あ?」
「此処に来てからあんた何回『臨也』って言ったんすか。一番頼ってんのはあんただ。あんた前に、俺に向かって『臨也を馬鹿にすんな』って言いましたよね。あいつは綺麗な奴じゃない。人を弄んで、飽きたら捨てて、また引き上げて突き落とす! あの男に何人が貶められたかあんたは知らないのか!?」
「……が、」
俺の脳は、正確に紀田の言葉を受け止めた。そしてそれに対する俺の答えは、何の怒りも孕まず、すっと口から出てきた。
「それが、なんだ?」
「はあ……?」
「だから、臨也に騙されて、突き飛ばされて、貶められて、で? それがなんだって、聞いたんだ」
紀田がぽかんと口を開ける。三ヶ島は笑みを少しだけ引っ込ませて、静観していた。
「だからって……正気か?」
「ん? 何か可笑しいか?」
「……あんた、イカれてる」
呟いた紀田の言葉はうわずって、震えていた。
「そこまで臨也に構われて羨ましいなあ……、でも最終的に臨也は俺の所に帰ってくるから良いけどな。そうだろ? だって飽きたら、捨ててる」
「……」