心紡
どうしてだ。昔に新羅と二人で遊びに来た時は、臨也に引っ付く俺を見て微笑ましいなと笑ったじゃないか。どうして俺の世界に亀裂を走らせるんだ。苛々する。止まらない。標識が俺の手の中で形を変えた。優しかった門田。こいつは俺を裏切った。
「俺には臨也しか居ない……俺の世界、に、……臨也以外入れるものかっ……、入って、くる、なあ!」
使えなくなった標識を脇に投げ捨てて全力で殴りかかった。身構えていた門田は一発目を避ける。直後に門田から着信音と思われるメロディが流れたが、勢い余った俺は何度も拳を振り上げる。門田が身を翻した時に、そのまま止まらない拳が金属製のシャッターを突き破った。臨也から俺の馬鹿力を聞いていた門田もぎょっとしている。俺は血が噴き出す右腕を物ともせず引き抜き、看板を持ち上げて投げつけた。
「おい、静雄!」
狼狽した門田は一撃食らったら終わりだと悟り、先ほどよりも俺から距離を取る。その間もずっと携帯が鳴っているが、出る余裕が無いのか無視し続ける。荒い息で化け物染みた呼吸をする俺に門田は両手を上げた。
「判った、謝る。俺を殴り飛ばしても不毛なだけだからやめてくれ」
「……」
俺の怒気から逃げるように門田は溜め息を吐きながらポケットに手を突っ込み携帯を出す。
ディスプレイに表示されているらしい名前を見ると、何故か眉を顰めて俺に視線を送った。
「もしもし。お前今何処にいるんだ。……は? ……ああ、居るけど。えっとろくじゅ……車が見えた? え、おい!」
電話口に叫んだ門田は俺を見据える。怒りの残滓が残る俺は訳が判らないと不快感を露にする。
門田は切れたらしい通話に呆けた顔をしながら、俺の背後に視線をやった。俺の後ろには門田が乗っていたバンに運転手が一人座しているだけだ。俺たちのやり取りを見ながら口をぽかんとしていた。訝しんだ俺の「世界」に、ぞくりと何かが侵入した。
「っ……」
基本的に誰が近付いても犯されない領域。それを踏み越えて俺が感知出来る気配は一人だけ。信じられない気持ちで振り返った。
「こんなとこに居たの、シズちゃん」
思考が止まる。全部、何もかも、すべてがどうでも良くなった。
「臨也」
何で此処に居るのかとか色んな考えを捨てる。会いたいという気持ちが強すぎて気が触れそうだった俺の、すべてにおいて一位の存在。
「臨也。臨也。いざっ」
足も舌も縺れて、感情の激流に頭が真っ白になる。何故か息を切らせて頬を上気させた臨也。苦しそうに寄せられた眉に不似合いなくらい綺麗な笑みが浮かんでいる。苦笑した門田が手持ち無沙汰に靴で砂利を動かした音に、縄から解放された俺は臨也に向かって走っていた。
勢いよく抱き付いた俺に臨也は後ろに2、3歩よろけるがしっかり抱き締め返してくれる。あんなに欲しかった体温に言葉が浮かばない。臨也というセーブに俺は怪力を発揮せず、だが常人が痛みを感じるレベルまで強く強く力を込める。苦しげに息を吐いても俺を放そうとしない臨也に心が溶けた。門田の言ってた事は、紀田の言ってた事はやっぱり間違ってた。臨也は俺を愛してくれてる。こんなにも強く。
「狩沢が居なくて良かった……」
呟いた門田の言葉に運転席に男が引きつった顔で頷いた。それに反応せず、俺は無言で抱きついたまま離れない。脈打つ心音に臨也は気付いているのだろうか。臨也の鼓動がよく聞こえるのは決して走ったからだけじゃない。初夏の陽光と生ぬるい風によって臨也の首に伝う汗に視線を這わす。
「帰ろうシズちゃん。お昼食べてないからお腹空いたよ」
「……」
肩に乗せた頭をこくりと縦に動かす。なのに足を動かさない俺に苦笑した臨也が背を叩いて促す。仕方なく拘束を外して俺はすぐさま臨也の腕に俯きながら縋る。そんな俺の姿を見ながら、僅かに背が勝る臨也が上から微笑みかける。
「悪いけどさあドタチン、送ってくれない?」
「俺らはタクシーじゃないぞ。まああの二人が本屋から帰ってくるまで結構ありそうだから別に良いが」
歩き始めた臨也に引っ張られる。近付いてきた門田が何やら臨也に耳打ちした。逆の耳だから俺には聞こえず顔を上げる。丁度囁き終えた後だったので内容は判らないが、臨也は内緒話などする必要も無いとばかりにはっきり聞こえる声で返した。
「はっは。馬鹿馬鹿しい。ドタチンと言えど俺のものに触るんだったら容赦しないよ」
「お前なあ……」
小動物のように臨也にしがみ付いている俺に門田は複雑な表情を見せる。見たく無くて視線を落とす。後部座席に乗り込んで人心地ついた後に臨也に擦り寄る。微笑んだまま臨也は何も言わない。俺も言葉を口にしない。話は帰った後で、と暗黙の了解だと理解した。運転席の男は、後ろに乗る俺たちを居ないものだと言い聞かせるように頭を振り、文句も言わず出発した。助手席の門田も偶にミラーを通して時々視線を送るだけ。元々距離が無かった為に自宅についたのはすぐだった。「今度一杯奢らせてよドタチン」と告げる臨也の足取りは軽い。まるで恋人のように手を繋ぐ俺たちの身体を運ぶエレベーターは何時もより速い気がした。部屋に入り、臨也が居るだけで暖かみをもたらした場所にほっと息を吐く。そんな俺を引き寄せて軽く口付けた臨也は俺をソファに座らせる。
「……」
無言の催促に俺はリップ音を立てながらキスを返して微笑んだ。
「おかえり」
「ただいま」
他人を偽る事が多い臨也が素の表情を見せてくれる。額を合わせ、しっとりとした幸福に身を委ねる。
「シズちゃんが『会いたい』って言うから、早めに帰ってきちゃったよ」
「……?」
「あのイタデンだよ。四文字言うのに五分もかかるの?」
「ああ……、っ、聞いたのか?」
「当たり前じゃん。シズちゃんからの留守電なんか逐一保存してあるよ? 最初から全部聞かせてあげようか」
意地悪く言う臨也に苦笑で返す。臨也の手が頬を滑る。物悲しげな表情に、聞かれる台詞を予想した。
「……ねえ、怒らないから、俺が居なかった間に何を食べたか言って?」
「……」
「まず朝は一口だけトースト食べたね。昼は?」
「波江に、……卵粥を」
「うん。夜は?」
「食べて無い」
「今日の朝」
「……食べて無い」
「昼は?」
「……食べて、無い」
「やっぱりね」
怒らないという宣言通り、臨也は苦笑したまま眉を下げる。申し訳無さに項垂れる。
意図して絶食した訳じゃない。食べる意欲と、食べようという意思が無かったんだ。だって何かを口にしようとすら思わなかったから。だが、そこまで考えた茫洋とした頭が何かを喉に通したと教えてくれた。それを正直に口にする。
「夜、に」
「うん?」
「臨也が居なくて、……居ないと思ったら凄く怖くなって……そんな事考えたくなかった、から」
「から?」
「……新羅から貰った、昔に使ってた睡眠薬……呑んだ。そうしたら、昼まで眼が覚めなくて、メールにその時気付いた」