人形遊びは嫌い
人形はつまり人の形だと気付いてしまって以来、血縁上の繋がりは彼女にとって意味をなさない。波江に父はいなかった。母もいなかった。落ちぶれた両親を軽蔑しきっていた彼女にとって、彼らは親ではなく血の繋がりのみを有する希薄な存在であった。存するも排するも同列である。彼女には家族さえいなかった。唯一の血縁と認めうる弟を「男」と定義してしまったから、もはや家族は一人もいない、もし彼女が、堕落者となり拠り所を求めたとして、最後に行きつく場所としての家は、既に自身で捨ててしまった。後悔はない、未練もない。明晰さと美貌だけでどこまでも道は開ける、と、信念は揺るぎようがなかった。振り向くべき後ろもなく、血縁などと纏わりつく因果は捨てた。自由だった。何物にも縛られず、好き放題に、理系の明快さでヒールを闊歩させられる筈だった。人間を実験する権力も、研究所を任せられる人脈も、謎を解法でしか捉えない知識も身に着けた。全て失ってさえも、情報屋の秘書となっても、彼女の信念は揺るがなかった。
だのに、何が足りないのであろう? たった一つの生首に、呪われたのは彼女であった。波江にとって、逆説的にも生首が唯一の家族じみた濃い繋がりを持った存在であった。つかず離れず、ずっと傍に居続けるもの。血縁よりもさらに深い呪いじみた繋がりで、生首は波江を静かに苛んでいく。
本当は、誰にも言いはしないけれど、幼少の頃の波江は、人形のあのぎょろりとした目が苦手であった。青い瞳を模したガラス質の網膜に映った自分の無表情が、お前には愛情を与えるものなど存在しないのだ、と突き付けてきて、いつも少女は怯えていた。無表情が怯えに変わる様子を、人形の無機質な薄笑いに嘲られ、幼い矜持はぼろぼろである。少女の矜持はいつか崩れて、全壊してからようやく女として生きられるのだと波江は経験から判じている。たとえば弟に付きまとう少女は、いまだ少女を捨ててはいないし、黒バイクであっても女性であり、きっとまだ少女の気持ちを持っているのだろう。波江はとうに捨てていた、二次性徴もままならない幼いままで、あの人形の瞳の中に。もしかすると、懐かしいのは人形ではなく、置き忘れた少女の自分なのではないか。馬鹿らしい考えを、幼少の思い出せぬ思い出と共に、切り捨てる。