鬼の恋
光正が休憩室にある冷蔵庫の中から冷たいペットボトルのお茶を取り出して新八に手渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
万年床を片付けて拭いた床の上に二人で座ってお茶を飲む。
「手際いいね。いつもやってるの?」
光正が笑いながら聞くと、新八はちょっと苦笑いを浮かべながら下を向いた。
「まあね、最近は剣の稽古よりもこっちの方が多いかも」
その一言で光正がはっとした顔になった。
「沖田隊長に勝ったんだってね!」
突然の大声に新八は口に近づけたペットボトルからお茶をこぼしてしまった。
「え?あ、いや、違うよ。あれは」
「すごいよね!あの沖田隊長とやり合って勝っちゃうなんて!」
勢いよく話す光正に新八はしどろもどろになりながら首を振る。
「勝ったって言うより、負けなかったって言った方が・・・」
新八が小さい声で話すと、それに反比例して光正の声が大きくなる。
「負けてないってだけで十分だよ!それにあの沖田隊長と剣を交えるなんて、それだけで凄い!」
大きな目を見開いて詰め寄らんばかりに話す光正に新八はしかし悪い気はしなかった。光正がなおも言葉を続ける。
「沖田隊長って、凄いよね!あの若さで一番隊の隊長だし、局長や副局長と互角にやりあえてるし」
「近藤さんはともかく、土方さんとは互角じゃねえ」
二人しかいないと思っていた空間にもう一人別の声が聞こえて二人は本当に飛び上がった。
「それに俺は負けてねえぜ。新八さん」
不思議な模様のアイマスクをおでこにつけた沖田がのっそりと部屋へと入って来た。
「勝った勝ったなんて言いふらすねぃ。みっともねえ」
新八に向かって冷たい表情で言い放った。
「な、何ですか!あんた仕事は?!」
「うるせえな、自主休業だよ」
新八がその言葉に立ち上がって大声を張り上げた。
「あんた、見廻りに行ってたんじゃないんですか?こんな所でサボリですか」
聞かれていた会話と言われた事にまんざらでもないと思った照れもあって、いつもより声が大きくなる。
「これから行くんだよ。あんたにどうこう言われる筋合いはねぇぜ」
アイマスクを乱暴に懐に入れる。
「光正」
「は、ははい!」
「そいつうんとこき使ってやれよ。足腰立たなくなるくれえよぉ」
直立不動する光正を横目に新八の顔が青くなった。
「・・・あ、はい!分かりました」
二人で沖田を見送る。残された新八が恐る恐る光正の方を見た。
「・・・ははは、えっと」
「じゃあ、仕事続けようか」
新八の方を見た光正の顔に大きな笑顔が浮かんだ。
「沖田隊長の命令ですから!」
新八が頭を抱えてその場にしゃがんだ。
昨日のきつい仕事で朝少し寝過ごした新八が、お妙の作る朝食を慌てたいらげると走って屯所に向かった。
息を切らしながら屯所につくと、新八は手際よく割烹着に着替え光正のいる大部屋へと向かった。
部屋の手前までくると目的の人物は新八の後ろにいた。
「あ、おはようございます、今日は何するんですか?」
笑顔の新八に光正が少し困ったような顔で声をかけた。
「えっと、まず沖田隊長が呼んでるから」
光正の顔は少し緊張している。新八は首を傾けてつぶやいた。
「何だろう」
光正の後ろを新八がついて行く。渡り廊下を通り大部屋から離れる程立派になっていく。広い部屋を想像させるふすまで仕切られた部屋の一室の前で止まった。
こほんと光正が咳払いをしたのはかなり緊張していたからだった。
「沖田隊長、新八く・・・、志村さん連れてきました」
中から「ああ」と声が聞こえると光正は正座をして戸を開けた。中で沖田が寝転がってテレビを見ているのが見え、新八はその姿に少し眉をひそめた。
「では、失礼します」
深く頭を下げて光正だけがその場を離れた。新八はそのまま部屋の中に入って戸を閉めて後ろを向いている沖田の前に正座した。
「何でしょうか、沖田さん」
「肩もめよ」
沖田の言葉は直接新八に投げかけられる。寝ながらテレビを見る沖田に向かって新八が冷静に言葉を放った。
「土方さんから隊士の個人的な雑用はやらなくていいと言われました。他に用がなければ失礼します」
おおかた予想はしていたのだろう、土方も沖田についてはあまり相手にしない様にと新八に釘を刺していた。
「なんでえ、生意気な事言ってねえで言う事聞けよ」
新八の方を少しだけ見る。
「僕はあなたとの賭けには負けていません」
沖田の態度にすっかりへそを曲げた新八がしかし言葉や態度は崩す事はなかった。
「生意気言うねえ。まぐれで俺に土をつけたからっていい気になるねぇ。しかも勝った勝ったと言いふらしやがって」
起き上がってあぐらをかき新八と真直ぐ向き合った。
「負けなかったのはまぐれです。それにあなたに勝ったなんて一度も言ってませんよ」
ふんと下を向く沖田になおも言葉を浴びせる。
「でもあなたは油断したんでしょ。最初に刀をあわせた時、あなたは本気で僕を斬るつもりはなかった。脅せば済むと高をくくっていたんでしょ?」
新八の言葉に沖田の眉間にしわが寄った。
「本気で斬って良かったのかよ、え?」
ぎりりと沖田が奥歯を噛んだ。
「あなたが本気で来ないと分かったから出来た事です。つまりあなたは僕とやる前から負けていたんです」
そう言い残して新八は部屋を出て行った。
「生意気な事いいやがって・・・」
沖田はそうぽつりと言って立ち上がりテレビを消すとしばらくその場で立っていた。
その顔は無表情ではあったが、唇の端を無意識のうちに噛んでいた。
あの沖田とのやり取りの後、新八は屯所の中で沖田と会う事はなかった。近藤や土方とも最初の挨拶で会ったきり、屯所の中でばったり会うなどという事はない。新八の仕事が主に下級隊士の部屋の掃除や賄いなど、隊長クラスの人間が来るような場所ではなかったということもあったが、沖田と会わなかったのは少し事情が違うようだった。
「あれ。沖田さん今日も来てないねえ」
食堂にいる年配の男性がふと口にした言葉を聞いて新八がつい反応した。
「沖田さん良く来るんですか?」
独り言のつもりでつぶやいた言葉に反応があったので年配の男性ははっと新八の方を見て苦笑いをした。
「ああ。良くね、ほら」
そう言って指を眼鏡のような形にしてにやりと笑ったのを見て、新八がははっと笑った。
「ああ。昼寝に」
新八の笑い顔に気を許したのか男性の口が軽くなる。
「まあね、あの年であの重責はたまらんだろうて。良くやってると思うよ。実際」
男の言葉に新八はふと花田屋での沖田の姿を思い出した。
「一番隊って危険なんですね」
「ああ、最初に斬り込むのはあそこだからねえ。だから入れ替わりも激しい」
男の言葉に新八は黙って頷くだけだった。
「沖田さんはあの性格だから、ここでも黙って寝るだけだがね」
新八が眉間に少しだけしわを寄せてじっとしていると光正が呼びに来た。
「新八くんー今度はねー」
はぁとため息をついて光正の方を向く。光正は沖田の言いつけを忠実に守り、新八に矢継ぎ早に仕事をさていた。
「はいはい」
その返事を聞いて光正が笑った。
「すいませんね、沖田隊長の言いつけなので」
「もう、あの人は僕を困らせるためにやってるんだから」
光正が新八に近づき手に持ったお茶のペットボトルと差し出す。