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もう一度君を抱きしめたいんだ

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 だけど最近、アメリカはもうあまり寂しくはならない。イギリスのことを思って泣いた幼い夜などはとうに置いてきてしまった。今ちょうど同じくらいに見える身長はもうすぐアメリカが勝つだろう。青白いイギリスと並ぶとアメリカはときどき自分がこわくなる。抱きしめたら、もしも昔のように思うがままに抱きしめたらこのひとは砕け散ってきらきらした何かになってしまうのではないかという詮のない(そう、詮のない)不安。苛つき。なのに昔にも増して触れたくなっていく。触って、触って、触って抱きしめて、抱きしめて、抱きしめて、それからどうする?
 イギリスはまだ気付いていない。
 自分が――アメリカが彼女を好きなのか、嫌いなのか。まだアメリカ自身でさえ決めかねている案件が持ち上がっていることに、気付いていない。
 それがひとつだけの頼りだった。


*


 イギリスの繰り言にアメリカの身の覚えがついていく確率は半分をすこし下回るが、中ったところでちっとも嬉しくない。しかも会場が小さいせいでふたりはミニバーのすぐとなりに、身動きが出来ない状態で詰め込まれている。ああ、古き良きあの時代よ、とアメリカは半ば自棄になってラム酒のコーク割りを飲みながら思った。あのふくらんだスカートは少なくともご婦人を紳士どもからすこしは遠ざけておくだけの効能はあったわけだ。
 薄く、ぴったり張り付いたドレス越し、なんて、つまりは裸でくっついているのと殆ど同じこと。しかも誰かさんはぐいぐいとこちらに身体を押しつけてきている。
「ああ、あのころはよかったわね……あの日あんたが着ていたドレスが目に浮かぶよう。あ、それもうひとつ」
 でもそれはただ単に立っていられないだけで、なのにまだウェイターの持ったプレートからカクテルを奪おうとしていた手をアメリカはぴしゃりとたたき落とした。
「言っておくけど、もうこれ以上はだめだよ。飲んだところで気持ち悪くなるだけだって、そろそろ学習してほしいんだけど」
「あんたになーにが分かるってのよ。ほら、こっち。ウェイターさん、このガキは無視していいから」
「君のほうがよっぽどガキっぽい気がするんだけど。あ、こら!」
「悪かったわね」
 結局受け取たカクテルを一気に流し込む様子からあーあ、とアメリカは目を逸らした。バッグから携帯電話を取り出して助けを呼ぼうとしてみるも、
「電波がない……」
「たしかあのドレス、手首に共布のりぼんがついていたんだったわね。ああ、あれも私が結べばよかったかしら。それと今考えるとコサージュも欲しかったわ。踊るときにはちゃんとりぼんも一緒になって動いて、それはそれは素敵だった」
「ちょっと待って、私の隣で幻覚について語り出すのはやめてくれないかな」
「幻覚じゃないわ。思い出よ」
 それも私とあんたの。最後に小声かつ早口で付け加えられて、アメリカは再びイギリスに視線を戻した。嫌がらせのつもりか、今は頭をアメリカの胸に押し付け、空になったカクテルグラスの足を指でなぞりながら何やらつぶやきはじめた。可愛かったのにやらこんなにでかくなりやがってやらいつもの文句がときどき耳に届いて、ひとまず気味の悪い呪文の類ではないと分かったので押しのけたりはしなかった。
 押しのける代わりに、後頭部をぺちぺち叩いてみる。
「ちょっと、イギリス」
「あによ」
「呂律回ってないんだけど」
「うっさい」
「あのさ、これわりと本気で言ってるんだけど、カウンセラーか精神科医紹介しようか?」
「はん、誰もがあんたの向精神剤とビタミン剤を信奉してるなんて思ってるんなら大間違いよ。油断していたら睡眠薬で一服盛られる可能性もなきにしもあらず、だしねえ」
「あたしのかかりつけだから、そこらへんはちゃんと言って聞かせておくよ」
「言い聞かせなきゃいけないようなことでもないでしょう」
「言い出したのはイギリスだけどね!」
「そうだったかしら」
「そうだよ!!」
「まあ、それはいいとしてアメリカ」
 下らない会話の末、自分からアメリカを押しのけて振り返った元宗主国さまは、何故かひどく真剣な顔をしていた。
「あなたに、カウンセラーにかかるような悩みなんてあったの?」
 皮肉にしか思えない台詞に言い返そうとして、まともに見つめることになってしまった緑の目に言葉がつっかえた。
「そ、りゃそれくらい」
「言いなさい」
「いやだよ!ていうかこれどんな拷問?!」
「いいから言いなさい。ン十年くらいしか生きてない人間よりもよっぽど有効な回答を出すことをお約束するわよ?」
「………………」
 見栄を張るんじゃなかった。
 最早悩みがあるなしの問題ではない。口調まで変わってきたイギリスがいつの間にか手に入れた新しいグラスからとろりとした液体を傾け、ヒールを履いているのにさらにつま先立ちになってアメリカに迫る。いつの間にか空いている方の手で指まで絡められて、ああこれは逃げられないな、頭の片隅でやけに冷静に思った。
 イギリスに悩みを話すのも格好が悪いからいやで、でも話さないで逃げるのもやっぱり格好悪くて、無難な答えを探しているうちにすっかり追い詰められてしまっている。
「あ、でも政治経済あたりの話とかは……ええ、うん。それでもいいわ。これでも同盟国ですもの。いいからどんと話してみなさいよ。昔はなんでも私に話してくれたのに、いまさら遠慮するなんて、いつでもあけっぴろげなあなたらしくない」
「なんだと思われてるんだろう、あたしは」
(やっぱり「昔」、になるのか)
「悩み」
「うん?」
「言っていいの」
「そりゃあ――」
「イギリスのことでも?」
「何よ。料理と映画評論界の文句は受け付けないわよ」
 軽口を叩きながらも小さな動揺が見え、目の前の双眸にはすぐにも波紋が広がった。
「イギリスが、昔のことばっかり言ってくることとか」
 指から力が抜けたのでこちらから力を込める。離さないようにもう片方の手首も掴まえて、掴まえる意味がないことも分かっていたけれど、彼女が泣き出すだろう予感はしていたけれど、それでも。
「イギリスが、まだ今のあたしを許してくれないこと、とか」
 結果から言えば、アメリカの予想は外れた。イギリスは泣きはしなかった。音ひとつたてなかったし、身じろぎすらせずに、アメリカから目だけは逸らして、しばらくの間その腕の中におとなしくおさまっていた。
 1時間か、1分か、1秒か。兎に角それだけの時間が経って、やがてアメリカが待ちくたびれかけてきたころ、不意にいまや両方の手が空を掴んでいることに気がつく。イギリスが両手をアメリカの肩に一度かけ、首の後ろに回してくる。重心がこちらにかかる。イギリスは目を閉じて、アメリカは目を開けたまま、昔みたいな、でももう昔と同じじゃないキスを落とされた。
「許します」
 囁き声の余韻がまだ残るうちに腕の中から抜け出した彼女がふらふらしながら人ごみの中に紛れ込んでいく後ろ姿を残された側は呆然と見送った。首筋に当たった冷たい腕の感触と髪に触れる指先が、記憶の中に残されていたかすかな過去を塗り替えていく。
 記憶。