ロング・グッドバイ
袖の下のナイフを握りしめ、不意をつく瞬間をカウントする。依然降りかからない殺意を不思議に思うが、平和島は、怒っていない状態でもこぶしを揮える青年なのかもしれない。うん、まあ、そういうタイプには見えないけれどね。
――だけれど奇妙なことに折原のそばに立った平和島は、そのポジションで立ちすくんだまま暴力をふるう気配を一向に見せない。すわ鬼のかく乱かと逆に不気味に思ったせつな、先ほど聞いたのと同じ、低い、まるで自分のうちにある濁流をせき止める「壁」のような何かを含んだテノールの声が、暴力の代わりに折原をうった。
「なあ、お前さあ。そんな生き方で疲れないか。……俺みたいに」
それはまるで、独白であり、エピローグであり、懺悔にも似ている台詞だった。五月の、憂愁さや玲瓏さを欠片も含まない、伸びかけたゴムのような風ばかりが折原と平和島の頬を等しく撫でる。平和島は何かを思い出すように、永遠に完成しないパズルのピースを不器用に埋めてゆくように、その一種一方的な会話を滑り出し始める。まるで北欧のほうの、残酷で幸福でうつくしい物語を話す人みたいに。
「俺は、つかれるよ。お前の生き方も、言い分も、理由も、理解できないけどお前さ、俺と同じように毎日戦争してるだろ。何かを、なんとかしたいぶっ壊したいって思ってるんだろ。ひょっとしたら生まれた時から……、いや、ちがうな、「自分」の意識が生まれたときから」
何言ってるのかなシズちゃん、ノスタルジーもセンチメンタルもリリカルさも要らないよ、と、普段の折原なら即言っていただろう。だけれどこの状況が、ベッドに縛り付けられ未覚醒を装うこの状況こそが、彼らの間で最初で最後の、平和島の独白を強制的に許した。まるで、絵空事上でしか認識出来ないひどく陳腐な「奇跡」みたいに。
「俺はお前が嫌いだし、お前だって俺が嫌いだろ。それは知ってる。でも、もしかしたら、……」
風が。風が風が風ばかりが消毒液と午後のグラウンドと知らない花のにおいを拡散させている。
目蓋で感じる影は色濃く、平和島の表情は伺い知れない。声に抑揚や、辛苦の念や、暴力は一欠片として見つからない。折原は急に、世界の用意した落とし穴に音もなく吸い込まれる感覚がして鳥肌立つ。
――「そこ」はたしかに、落とし穴として存在していた。