ロング・グッドバイ
マッチを擦るような舌打ちの音。もう一息で手に入れられそうであった世界と融合するビジョンはあやふやにかき消えて拡散し、夢とリアルとの狭間のような音質で平和島のローファーの立てる靴音が響くなり、確固たる力を顕示しながら遠ざかる。かけてあった上着を手に取り、いつもみたいに適当な歩き方で、保健室から出て扉を閉めてそして、どこかへ。
……折原の、緊張してナイフを握りしめていた手筋に冷えた汗がわずか滴った。折原は宗教も神も来世も前世も信じないことにしていたけれど、いま、たしかに自分は、平和島の言葉によって今まで見たことのない世界を視認したのだ。思い出すようにこめかみに手を添える。「もしかしたら」の次に来る言葉をいくつかピックアップして選択し、そのすべてを、折原はいつものように、冷や汗をかいた手でダストボックスフォルダにつっこんだ。
ともだちに?家族に?恋人に?
その単語のすべての荒唐無稽さに、ようようまなこを満足に開いた、折原には笑うことしか許されてはいない。ずいぶんと下手な嘲笑が、頬に刻まれては見る人もいないまますべり落ちてゆく。後には名まえの知らない花々の、微かな皐月めいたにおいが残るのみだ。