恋を思って死ねたなら
3.
「ああああ、駄目だよー! 振り向いてー! 振り向いてよおおおお!」
「そうそう、振り向いて、あ、ああああ、お願い、お願いだからああ!」
隣で絶叫するリンとミクを見つめ、レンはそっと気づかれないように腰を浮かした。二人はレンの存在など気にも留めていないようだった。当然か、とレンはそっと息を落としてリビングから出て行く。廊下を静かに歩き、ふと思い立ってマスターの部屋をノックした。柔らかな声が返ってくるのを確認してから扉を開く。マスターはパソコンデスクの前に座っていた。レンの存在を確認するように振り向いて、笑う。
「レン。どうかしたの」
「リビングに居たんだけれど、リンとミクさんが映画見出して、叫びだすから逃げてきたんだ」
「叫ぶ……ってことはホラー映画を見てたのかな」
「うん」
レンは後ろ手に扉を閉めて、マスターの部屋に鎮座する家具を眺めながら、そのままベッドの上に腰を下ろした。パソコンのモニターをその場からちらりとうかがうと、何かしらのソフトが起動されているのがわかった。レンの視線に気づいたのか、マスターが笑いながら「作曲してたんだ」と答える。 邪魔をしてしまったかもしれない、と浮き上がらせた腰を制止するようにマスターが立ち上がり、レンの横に座り込んだ。そのまま仰向けに倒れる。布団がぼふりと乾いた音を立てた。
「なんか行き詰っちゃって、レン、わたしと話そうか」
「……うん」
頷くと、マスターの顔が嬉しそうな色に染まる。レンも思わず、つられて笑い返すと、マスターは喉を軽く鳴らして、くすくすと笑みを零した。柔らかな笑みだ。心を、何か──柔らかなものでそっと撫でられるみたいだ、なんてぼんやりと考えながらレンはマスター同様に身体を、そっと布団に横たえた。
「レン、どう? この前言っていたことの答えは見つかった?」
「この前──」
唐突な言葉に、ゆるくなっていた思考を動かす。おそらく、マスターの言う『この前言っていたこと』とは、恋とは、好きとはどういうことか、をさしているのだろう。
覚えていてくれたんだ。心中で、ろうそくの火が灯るような感触を覚え、レンは頬を緩める。覚えていてくれた。おれが言った言葉を。その事実が、レンの頭をぐるぐると回る。嬉しさと、少しの居心地の悪さを覚えながら、レンは首を縦に振った。
「好きは、苦しいことだって、わかったよ」
「えええ」
若干呆れたような声──そしてそれに込められたからかうような感情に、レンは天井へ向けていた顔を横へ向ける。マスターの優しげな瞳と視線があった。
「苦しいことって。それだけ?」
「……それだけ、だよ」
それ以外に何があるというのだろうか──。よくわからない。訝しげな表情を浮かべてマスターを見つめたレンに、マスターがかすかに笑って顔の前で手をゆるく振った。
「それだけじゃないよ。恋はさ」
「……わかんないよ。苦しくって、痛くて、でも嬉しくて、素晴らしいのが恋なんだって、そうとしかわかんない」
マスターが笑い、顔の目の前で振っていた手をレンの身体へとそっと近づける。指先がレンの左胸に、そっと触れた。
「確かに、好きって感情は痛いかもしれないけれど」
マスターの指先が、レンの左胸をつつく。女性特有の柔らかそうで、そして細い指先を眺め、それからレンはマスターと視線を合わせた。こげ茶色の瞳は、凪いだ水面のように、静かだ。淡い色の唇が、優しげな声を紡ぐ。
「それだけじゃないよ」
マスターの言葉は抽象的だ、とレンは思いながらも言葉に出さず、ただもう一度、わかんないよ、とだけ愚痴を零すように唇の端から漏らした。
それだけじゃない。痛いだけじゃない。よくわからない。どういう意味なのか、よくわからない。もっと明確に教えて欲しい──。マスターに投げつけかけようとした言葉は、喉の奥に張り付いて上手く声にならなかった。
わかんないよ。もう一度口に出した言葉は、迷子が発するような弱弱しさをもって部屋に響く。ぎゅっと額に皺が寄るのがわかった。
「わかんないんだよ……、痛いだけじゃないの?」
「いつかわかるよ。レンに好きな人が出来たらね」
好きな人が出来る日なんて来るのだろうか。好きという感情さえ、わからないのに。唇を突きそうになった言葉を必死に胸中へ押し込んで、レンはこっくりと頷いた。マスターの手の平が頭に触れて、優しく動く。頑張ってね、という言葉に酷く無責任な感覚を覚えながらも、レンはもう一度だけ頷いた。
頭に触れるマスターの手の平の温かさが、そのままレンの肌をじんわりと侵食していくように広がっていった。
作品名:恋を思って死ねたなら 作家名:卯月央