恋を思って死ねたなら
笑みを浮かべることが出来たら。マスターの悲哀な色に染まる表情を見て、レンは焦る。笑みを浮かべたら返してくれる。こげ茶色の瞳が細くなって、唇の端が柔らかく持ち上がった、そんな笑みを浮かべてくれるはずなのに。それなのに。
「マスター、笑ってよ……」
マスターを抱きしめていた手の平から、力が急速に抜けていく。レンは目の前で悲しげに表情をゆがめるマスターを眺めて、それから、呆然とした。
なんで笑ってくれないんだろう。おれのことが嫌いなんだろうか。そんなの嫌だ。そんなの、──悲しい。
もう一度笑みを浮かべようとして、必死に痛みに耐える。不意に、メイコが「変なにおいがする」と言葉をぽつりと零した。
「レン、あんたから変なにおいがするわ」
何を言っているんだろう、と反論する気力さえわかなかった。痛みに耐えるように、けれどその痛みをしっかりと胸の内に抱え込むためにレンは自身をかきいだく。
「レン、オーバーヒートしてるから、どこかの機関が焼けてるのかも……」
「オーバーヒート? ちょっと、それ、危ない状態じゃない。マスター、あたし、メンテナンスセンターから車出せないか電話するわ。とりあえずレンを横にして──」
「ワタシ、氷取ってきます!」
「ちょっと待って、ミクちゃん、おれも行くよ」
にわかに慌しい音が響きだす。変なにおいなんてしない。オーバーヒートなんてしていない。おれには何の異変も起きていない。
声を大にして騒ぎたかった。騒ごうとした。けれど、レンを見つめるマスターの泣きそうな表情を見ると、レンは何もすることが出来なかった。
違う。そんな顔をして欲しくない。笑ってよ。笑ってよ。笑ってよ。
レンの手の平が伸びて、マスターの手の平を掴む。
「わらってよ」
小さな声はマスターには届かなかったようだった。マスターは瞳を潤ませてレンの手の平を強く握って、ごめんね、と謝った。
ごめん、気づかなくてごめん。大丈夫? ──マスターの唇から漏れる謝罪の言葉は弱弱しく、レンはどうしようもなく、手の平に力を込めた。淡い桜色の唇から漏れる謝罪の言葉は絶え間ない。
何に対して謝っているのだろうか。おれに対してなら、必要なんてないのに。そんなに謝らないでほしい。
継続的に胸を蝕む痛みとは違う、どこか甘い痛みがレンの胸を刺す。笑っていてほしい。笑ってほしい。
笑みを浮かべようとしたら、どこかが千切れるような音がした。レンの身体はそのまま横に倒れた。
作品名:恋を思って死ねたなら 作家名:卯月央