【捏造】 真選組!
蜩が悲しげな声を上げて鳴いている。西の空は真っ赤に染まっているのに東の空から夕立でも降らしそうな雲がぐんぐんと空を覆ってくる。雨が降り出す前の湿った風が唸った。
山南は文机の上の灰皿を取り上げた。色気の無いアルミの灰皿には吸殻は無く、灰も残っていない。部屋では吸わないのだなと総悟はなんとなく思った。それを示すように未だ長かった煙草を灰皿に押し付ける。白くて長い指が煙草を捻る様に押し潰し、山南は総悟の隣に座る。深い湖のような黒い瞳が此方を見て、かすかに頷いた。
医者が言うには、と総悟は話し始めた。
武州の生家、今は姉が一人暮らす家に戻れば何故か姉は居らずがらんとしており、留守番をしてくれていた近所の人が病院へ入院したと聞かされた。一報が間に合わなかったのだと教えてくれたが、入院の二文字に気が逸り礼もそこそこに教えられた病院へ急いだ。姉は空調の聞いた部屋で静かに眠っていた。今朝夜明け前に酷く咳き込み、世話をしてくれていた手伝いの小母さんが尋常でない様子を察し、これはいけないとそれまで入院を拒んでいた姉を説き伏せて救急車を呼んだという。総合病院の受付で病室を聞き、肉親であることを告げると病室を教えられた。姉の部屋にたどり着くや否やすぐに若い担当医が来た。両親は居ないということはすでに付き添った人から聞いたようで、医師は自分の個室へ案内した後君はまだ若いからと単刀直入に告げた。
「お姉さんの病気は治りません」
真向かいに座った担当医がはっきりとそう告げたとき、総悟は自分でその意味が理解出来ていない、というよりも理解したくないと拒んだ。意味がわからねェ、とポツリと呟いた自分の声が耳の奥に響いて、自分が今喋っているのだと分かった。担当医もそれを察したのか、もう一度丁寧な口調で正確にはと前置きした
「身体の中に入った菌は一生出て行かないということです」
担当医は至極真面目な顔をしながら、書類を見せた。数字の羅列してある紙切れで、それが何を意味するのか一つ一つ教えたがまるで頭に入らない。覚えているのは此の菌は自然界どこにでもあるということ。感染経路は様々あるが、元々の体の弱さも手伝って症状が強く出ていること。
「身体の免疫機能だったか何かが弱まると、菌が暴れだすらしいんでさァ」
酷く暑かったり明け方何故か冷えたりして調子を崩したところに、持病ともいえる病がじわりと姉の身体を侵食した。微熱が続いたのもその所為で、元々微熱程度ならと思って普段通り過ごしてしまったのも酷くなった原因の一つだという。
「治す道が無いって、そんな」
そう担当医に噛み付きかけた総悟を押し留めたのは、欠片ほど残った理性ではなく、ただ此の現実を受け入れ難いと思っている心だった。担当医は総悟が落ち着くのを根気強く待ち、淡々と今後の治療法と方針を説明した。抗生物質の投与、それから空気の綺麗な場所で安静にして、体力を戻しながら一生此の病と付き合う覚悟を持って過ごすしかないと教えた。
「そう言う消極的な治療しかないらしいんでさ。」
口に出してみると、なんとも現実味がない話だ。というよりも、医者から聞かされた次点で余り現実味が無かった。じゃぁ、自分はどうしたらいいのか、どうしたら姉が治るのか、それを教えて欲しいのに。
医者は言う。はっきり言うけれども決して死亡率が低い病ではない。けれども、日々気をつけていけば決して恐ろしくは無い病だという。医者は力説したが、信じていいのか、それとも詭弁なのか、それすら分からなかった。
「近藤さんには言ったの」
「えぇ」
なんて、と山南は尋ねた。そうかとしか、総悟はぽつりと心細く言った。
山南は隣に座った総悟の背に手を置いた。まだ男の背とは呼べぬ、狭く成長しきっていない青い背を。此の背に、姉と、此の真選組という組織の一番隊の長、切り込み隊長としても役目を背負わされている。恐らく隊の中で、最も早く大人にならなければならなかった子供。寄り添うように、山南は其の侭総悟の背中をただ黙って撫でた。
頑張ろうね、大丈夫だよ、ありきたりで一番聞きたくない言葉も何一つ言わない。それが総悟には嬉しい。近藤さんに姉の状況を伝えたときも、一言分かったと頷いて両肩に手を置いて頷かれた。そのときもとても心強かった。十日以上も張り詰めていた糸が、いや、それよりも遥か前からの、姉を守らんとする緊張の鋭さがふっと緩んだ気がした。
突きつけられた病という現実が恐ろしいことに変わりは無い、けれども。
それでも、だ。
「雨だわ」
沓脱石にぽつり、ぽつり。灰色の水玉を一つ二つ残すものがある。生暖かい風が雨を連れて来た。
総悟は暗くなった空を見上げた。勢いよく降り始めた夕立が、叩きつけるような雨を遮二無二降らせた。乾いた地面が水浸しになり、砂地を縫うように水の通り道が見る間に出来た。
雨が降る。
にわか雨だ。
雨の匂いと、寄せられた身体から、女の人特有の柔らかな匂いがふわりと混じった。手が止まり、頭を引き寄せられた。頭の天辺に山南の額が触れ、ミツバさんと微かに呟く声が聞こえた。どこまで。
何処まで此の人たちは自分を甘やかすのだろう、総悟は思う。確かに歳は十以上も違うし、出会った頃はまだ子供といっていい頃だ。今は同じ組織に身を置いているのに。反発心が起こらぬわけでもなかったが、涙声の山南には何も言えぬ。総悟は黙って激しく降る雨を見た。強く叩きつけるように、景色を滲ませる。
「此の雲、武州にも行くかしら」
掠れた声が尋ねた。
総悟は答えはしなかった。
「少し、涼しくしてくれるといいわね」
はいと頷いただけだった。
<4=「台風でもくリャァいい」>
屯所の外れ、スタンド灰皿の或る木陰が最近のお気に入りの休憩場所である。部屋の中は蒸し暑いが、此処は昼日中でも一日中日蔭で風の通りもよく、大抵誰かがいるのだが珍しく誰も居ない。土方は縁台に制服の上着を投げ、煙草に火を点けた。
朝、一本目は美味いと思う。およそ六時間弱後のニコチンの摂取。後は惰性だ。
ただ、此の毒が血の巡りを遅くして体温が一瞬下がるあの瞬間は好きだ。すぅと気が遠くなるような。毒に依存して、縋りつく。自分の身体が沈み、そうしてまた浮上する、あの一瞬の生き死に。美味くも無いのに吸い続ける理由の一つ。
「火、貸して」
死から浮上する間際、聞き覚えのある声がした。声のしたほうを眼だけで見て、舌打ちした。
「んだよ、持ってねェのか」
「ガスが切れたの」
ズボンのポケットからライターを出そうと手を突っ込んだ。目の前に出してやると声の主は煙草を咥えて先を突き出す。無言で点けろといった。行儀がわりィなと思いながら、フリントを叩く。紅すら引かぬ口唇で煙草を斜めに咥え煙を吐いた。炎を吸い込み、ありがと、おんなにしちゃぁ低い声で礼を言う。こないだ火が無いというからライターを毟り取られたが、もしかしたら使い捨てたのやも知れぬ。まぁ、貰い物だから別段構わねェ。
油蝉がじわじわと鳴いている。梅雨が明けてすぐに此の様だ。今年は空梅雨で雨が降らぬ。蝉は青春を謳歌するように喧しく鳴く。
山南は無言で煙草を吸った。土方も同じく煙草を吸う。