お待ちかねの悪意
彼は結局何をしたのか
それは、ブルースクウェアが大方壊滅したという情報を聞きつけ、池袋に戻ってすぐのことだった。
コンビニに出掛ける途中だった門田京平は、夜道に立ち尽くしている人影を見つけて眉を寄せた。歩くスピードを緩め、じっと佇む人影を注視する。しかし数歩近付いて、それが見知った人物だと気付くと、門田は目を丸くした。相手も、門田に気付いたようだった。ゆっくりと歩み寄ってくる。
「やぁ、ドタチン。久しぶり」
街灯の下に現れたのは、折原臨也だった。貼り付けたような笑みを浮かべて、門田に片手を上げて見せる。ただし、上げている方とは反対の手は、首から吊られ、黒尽くめの出で立ちの中で白く浮き上がっていた。良く見ると、額にも大型の絆創膏が貼られている。
「おう、何か用か? こんなところで立ってないで、家まで来りゃ良かったのに」
門田が尋ねても、臨也は軽く首を振るだけだった。球が切れかけているのか、頭上の街灯が時折明滅する。
「夕飯まだだろ? 奢るから付き合ってよ」
臨也が、今度は明確に言葉を口にした。珍しい誘いに、門田は軽く目を瞠る。
「そりゃ構わねぇけどよ、何で奢る話になってんだ?」
身に覚えの無い門田は、不審気に眉を寄せた。臨也は門田の疑問には答えず、くるりと踵を返した。門田は少し考えると、先を行く黒い背中を追いかける。
「露西亜寿司でいい?」
足音を聞きつけた臨也が、振り返らないまま言った。
「ああ」
門田が追いついて頷く。門田が横目で伺うと、臨也はほっとしたように溜め息を吐いた。
「良かった。俺、今露西亜寿司しか行けないんだよね」
臨也の言葉にやはり疑問を感じながらも、門田は何も言わなかった。いつもは五月蝿いぐらい良く喋る臨也も、道中それきり口を閉ざした。ただ、異様に早足で目的地に向かう。
その違和感は、人通りの多い繁華街に出ると、自ずと解消された。臨也は不自然ではない程度を装っているが、周囲を見回す動作を繰り返した。
「オー、カドタ。久しぶりネ。寿司食いネェ。イザヤはこの前ぶりネ。寿司好きネェ?」
二人が寿司屋の暖簾をくぐると、派手な内装の店内で大柄の黒人男性がにこやかに出迎えた。
「よ、サイモン。奥空いてる?」
臨也が気軽に声をかけると、サイモンは愛想良く二人を奥の座敷に通した。
露西亜寿司は夕飯時を少し過ぎ、ピーク時程でも無いものの、そこそこの賑わいを見せていた。
二人が席に着くと、すぐにサイモンが緑茶を持って来る。
「ハイ、緑茶、イイよ。ビタミンC。怪我治るヨ」
臨也は苦笑して肩を竦めた。サイモンは、じっと臨也を見つめる。
「喧嘩、ダメよ? 怪我したらイタイイタイ」
「お説教は止してよ。もう子供じゃないんだからさ」
臨也がうんざりとした様子で言った。門田は、学生時代、よく静雄と臨也の仲裁に入っていたサイモンの姿を思い出す。その実、当時開店したばかりの露西亜寿司が、臨也の豊かな財布に目を付けていなかったとは言い切れないが、今でもこうして二人を気にかけてくれる珍しい存在だ。
「スグ喧嘩する、子供と一緒ヨ? 大人は喧嘩シナイ」
「分かった分かった。気を付けるよ」
臨也は、煩わしそうに手を振った。サイモンがテーブルを去ると、臨也は頬杖を突いて溜め息を漏らした。
「全く、おせっかいなんだから」
結局、こうして臨也は常連客になったのだから、両者にとっては些細な問題だろう。門田は、臨也の左腕に視線を向けつつ口を開いた。
「それ、静雄か」
他の客の話し声に紛れたその響きは、疑問ではなく断定だった。臨也は、皮肉に口の端を上げて苦笑する。
「まぁね。ちょっと油断した」
「お前、下手したらそのうち殺されるぞ」
門田が眉間に皺を寄せる。ブルースクウェアに関連して、臨也が静雄を嵌めたことは、門田の耳にも届いていた。臨也は緑茶を啜りながら、人の悪い笑みを浮かべる。
「そう思ってさ、別の奴何人かけしかけてみたんだけど、殺さなかったよ。何とか塀の向こうに押し込みたかったんだけどさ」
「あいつはそういう奴だよ」
門田は深く溜め息を吐いた。
「ドタチンは知らないんだよ。あいつ、悪魔みたいな顔をする」
臨也は、心底不快そうな顔をした。
「お前のせいだろ」
「違うよ」
「お前だって、似たような顔してるよ」
臨也は、途端に顔を引き攣らせた。門田がその反応を鼻で笑うと、臨也は機嫌を損ねたように眉を寄せた。不貞腐れた顔で緑茶を啜る。
「ハーイ、特上二つネ。毎度アリ!」
突然割り込んできた明るい音声に、門田と臨也は目を瞠った。目の前に差し出された寿司を見て、臨也が僅かに表情を緩める。
「おい、本当に奢りでいいのか?」
値の張るネタばかり並んだ皿に気後れして、門田が確認した。
「いいよ。最初から言ってるじゃん」
割り箸を門田の前に差し出しながら、臨也が答えた。門田の分の割り箸はあるので、門田は中空のそれをじっと見つめた。
「割って」
臨也に強請られて、ようやく門田は意味を理解した。割り箸を受け取って力を込めたが、質が良くないせいかか、不恰好に割れてしまった。門田が取り替えようとすると、臨也がそれを遮った。
「いいよ別に。食べられれば」
割り箸は素早く引っ手繰られ、不恰好なそれが臨也の右手に収まる。小皿に醤油を落としながら、ふと思いついて門田が尋ねた。
「お前、利き手どっちだった?」
「両方」
臨也は、若干ぎこちないながらも、きちんと箸を使いこなしていた。それを確認して、門田も同様に箸を握った。
「旅行行ってたんだろ? どこ行ってたの?」
不意に、臨也が尋ねた。臨也がそれを知らないとは思えなかったが、門田は律儀に返事を返す。
「色々だな。車で関東一円適当に巡ってた。土産が欲しけりゃ、狩沢や遊馬崎達が色々買ってたぞ」
「いらないよ」
臨也は、行儀悪くイクラを箸の先でつついていた。
「そういえばさぁ」
臨也が、気のない様子で口を開いた。
「俺、引っ越したから」
「は?」
ぽつりと呟かれた言葉に、門田はぽかんと口を開けた。臨也が、またぽつりと呟く。
「新宿」
「近いな」
「そう?」
臨也が首を傾げた。
「そうだろ」
池袋から新宿まで、電車で十分もかからない。
「今までよりは遠いよ」
「……そりゃそうだ」
門田は呆れて呟いた。臨也はまだイクラをつついている。あまりにその動作が長いので、門田が見咎めた。
「嫌いなのか?」
「見た目がね。ちょっと気持ち悪くない?」
そう言うと、臨也はイクラの寿司を口に放り込んだ。
「うん、美味しい」
「……そりゃ良かったな」
何か釈然としないものを感じながらも、門田は適当な相槌を打った。