LOVE LETTER
「ねぇ、それって課題?」
検算に没頭していたところ、ふいに横から声をかけられて、健二は瞬きして手をとめた。首を捻って振り返れば、師事する教授の助手をつとめる先輩女性が興味津々といった風情で自分の手許を覗き込んでいる。
「いえ。知り合いが昨日送ってきてくれて──」
昨夜、日付が変わる直前に、一部でぶさかわいいと好評な自分のリスのアバターが一通のメールを差し出した。そこには思わず数学バカの自分が笑ってしまうほど、これでもかといわんばかりに数字が詰まっていて。それを見た時の気持ちを思い返して頬を緩めていると、控えめにねだられた。
「見せてもらってもいい?」
「いいですよ」
健二は急いで自分の書き散らかしたレポート用紙をざかざかとまとめた。ひとまず束ねたあと、内容に目を通しながら右肩に振った番号順に並べ直していく。すると申し訳なさそうな声と一緒に白い手が伸びてきた。
「それくらい自分でやるよ」
「あ、でも、五問もあるので」
「そんなに? それをもう解いちゃったってことは、また徹夜したんじゃない?」
「はは……」
きれいに描かれた眉が咎めるようにきゅっと上がるのに、健二は眉を下げて苦笑した。叱られこそしないが、時々夢中になりすぎて寝食を忘れてしまうので、知人友人にはしょっちゅう呆れられている。
「でも、あまり複雑じゃなかったので」
「ふぅん?」
あまり寝ていないのは図星だったが、明け方にはひと眠りしたので、いまも疲労感はないのだった。むしろ面白みはあるものの、どこかもの足りなくてついついそこにある次の問題に手を出すのを繰り返していたら、ほとんど解けていたという塩梅で。その証拠に、それほど計算式を費やさなかった束は、ほんの二言三言交わす間に並べ替えが終わり、健二はレポート用紙の端をきれいに揃えると、隣へ無造作に差し出した。
「はい、どう──あっ」
手渡す直前でひとつ忘れていた作業に気づき、受け取ろうとした先輩の手を避けてレポートを引っ込めた。
「え?」
「すみません、ちょっと……」
驚いている相手に謝りながら、健二はぱたぱたと左手でズボンのポケットを叩く。
左、後ろ、右、と手探りで確かめたところで思い出した。そういえば携帯電話は昼に外へ出たとき、リュックの中へ放り込んでそれきりだった。
おあずけを喰らった先輩が怪訝そうな顔をしているのに気づいた健二は、ひきつった笑顔でごまかして手早く机に置き直したレポートをめくる。そして開いたままだった一番上の、真っ白なページに英数字を書き写していった。
手早く、だけど正確に。慎重になってしまうのは、以前ケアレスミスで手痛いというか、気の抜けるような思いをしたことがあるせいだ。
「それ、答え?」
「はい」
こういうものを人に見せる場合、すぐに返される時とそうでない時がある。だから出題者へ返信するために解だけまとめていたのだが──写したものをしつこいくらいに一文字一文字見比べていると、健二の意図を察したのだろう。急かさず待ってくれていた先輩は、しかし突然何かに気づいた様子で、あれ、とちいさな声を上げた。
「この問題、送ってきたのって女の子?」
「へ? いえ。違います、けど?」
「ほんとに? じゃあ偶然かなぁ」
「なんでですか?」
彼女の脈絡のない問いかけに、健二はきょとんと瞬いた。
問題や答えを見て出題者──しかも作ったわけではない──の性別が判断できるとは思えないし、どうして女の子からの出題だと思ったのか、さっぱり見当がつかない。首を傾げると、するすると側まで寄ってきた先輩は、横から手を伸ばして健二がさっき書いたばかりの文字を爪の先でそっと押さえてみせる。
「だから、こうやって──」
黙って見守る先できれいにマニキュアされた爪がゆっくり動いて、すうっとレポート用紙に一本の浅い線を残した。
「ここだけ並べると、なんか意味深でしょ」
「……はい?」
彼女が示してみせたのは、いわゆる縦読みというやつだった。横書きで書かれた文章の、各行の何文字目かを順に縦方向に読むことで、違う意味の文を生み出す言葉遊び。いわれてみればたしかに解の三文字目はすべてがアルファベットになっていて、単語が綴られているようにも見えなくは、ない。
(まさか暗号、とか)
健二の心臓がほんのすこし大きく跳ねた。うっかり解いてしまった問題が、とんでもない代物だったことは忘れ得ない記憶だ。
それに、すこしばかり気にかかることもある。ひとつめは、この設問の数。思い返せばこれまでに一気に五問も問題が送られてきたことはない。しかも、彼からのほとんどのメールは無題で送られてくるのに、タイトルがついていた。『Solve Me』。例のあの夏の事件の発端として受け取ったものとまったく同じ題。これがふたつめ懸念だ。
メールを受け取ったそのときは、ただのエスプリなのだと思った。懐かしくて笑ってしまったのだけれど、これはもしかしてもしかする──のだろうか。なにしろ珍しく最後にひと言まで添えてあったくらいだし。
『全部解けてから返信すること』
文面を脳裏に浮かべると、なんだか額に変な汗が滲んできた。末尾にそう書かれてあったから、健二は返事をするためにもいそいそと問題と向き合っていたのだけれど。一瞬のうちにものすごい速さで頭の中でいろいろ考えてしまった健二は、とりあえず動揺しながら該当の文字だけ答えの下に書き直してみる。
l u v y a
並べた英字を見て首を捻った。英文にしては短すぎるし、かといって単語としても見覚えがない。自分には意味も読み方もさっぱりわからず、そこで潔く先輩に訊ねることにする。
「これって何か意味があるんですか?」
「知らない?」
「知らないです」
文字をペンの先で指しながら、ほとんど怯えるような眼差しで見上げると、そっかぁ、と気が抜けた様子で呟いた先輩は、意味の汲み取りづらい微妙な苦笑を浮かべて口早に返してきた。
「じゃあやっぱり深読みしすぎだったかなー。ごめんね。忘れて忘れて」
「は? えっ、いや、忘れてって言われても」
そんなフリをされると余計に気になるんですけど。
そちらが言い出したのだから、意味の説明ぐらいしてくれてもいいだろう。そう思って目を向けても、彼女は両手をひらひらさせるばかり。挙句に「じゃあこれ借りるね」とレポートを攫い取ると、そそくさと部屋を出て行ってしまう。
「なんで……」
どちらかといえばきっぱりとした男勝りな気性で、いつも教授にさえもはきはきものを言うような人なのに。慌てて逃げるようにして去って行った態度が腑に落ちず、健二は片手を挙げた格好のままひとり茫然とした。
しかし、しばらく待っても彼女が戻ってこないことを理解すると、困惑しながら姿勢をほどく。レポート用紙に目を戻し、問題の文字列をじっと見つめた。とりあえず、この意味がわからなければ何もはじまらない。
「あ、そうだ」
作品名:LOVE LETTER 作家名:にけ/かさね