ERROR DETECTION
「じゃあ博士、また明日」
夕飯のあと、リビングでしばらくくつろいだオレは、適当なところで分けておいた三冊の中から一番気に入った装丁の本を一冊だけ抜き出し、パソコンの前に座っていた博士に声をかけた。
「気をつけるんじゃぞ」
「大丈夫だって」
気をつけるったって、何にどうやって気をつければ良いんだか。
心配性な博士に、オレは苦笑しながらひらひらと手を振った。そして博士が見送るというのを断り、台所で片づけをしている灰原にも声をかけた。
「じゃあな、灰原」
朝にはこっちに顔を出すけど、明日は土曜日で学校も休みだから(それで蘭も外泊を許可してくれたのだ)きっと灰原は自分の部屋に籠もりきりになって、オレとは顔を合わせないような気がする。
そんなことを考えながら台に上って食器を洗っている背中を見ていたら、ふいに細い声が返ってきてびっくりした。
「おやすみなさい」
何ていうか、気まぐれなところがあるやつだし、食事の最後のほうにちょっと気まずい感じになったから、正直返事があるとは思ってなかった。
べつに、隣の実家に帰ることにしたのは、泊まるなら自分で寝床の準備をしろって灰原に言われせいじゃないんだけど。あんまり感心しないわ、と反対されたのに、平気だって、と軽く躱したら不機嫌に黙り込んでたから、自分のせいだと思ってるのかもしれない。
でもまぁ、背中を向けたままでも、ひと言あって良かった。機嫌が直ったとは思わないが、おう、と短く答えたオレは、両腕で本だけ抱えてリビングを出た。
「何かあったらすぐ連絡するんじゃぞ」
「わかってるよ」
結局玄関までついてきた博士は、真剣な顔で念を押した。それに約束を返してドアを閉めたオレは、正面の門へは向かわず、そのまま横手へ逸れて庭を突っ切った。
以前灰原が言っていた、組織のやつらの抜き打ちチェックがまだ続いているかどうかはわからないが、用心するに越したことはない。だから博士と一緒の時や、昼間ならひとりでも正面から出入りできるのだが、この時間に家に入って出て来ないとなると不審に思われるだろうから、いきおい裏技を使うことになるのだった。
オレはさりげなく壁際に立てかけてあった脚立を使って塀に登り、あたりを見回して目撃者の有無を確認してから隣の敷地に飛び降りた。そうして無事に自分の家の庭に忍び込むと、壁伝いに裏手にまわり、勝手口の鍵を開けて素早く中に入る。
何日も締め切っていた家の中は、我慢できないほどじゃないけど、空気が澱んで埃っぽい匂いがした。
脱いだ靴を本と一緒に腕に抱えたオレは、腕時計型ライトで足下を照らしながら慎重に台所を抜け、玄関ホールに出た。
月に一度ハウスクリーニングの業者を頼んでいるのと、蘭や博士が好意で時々埃を払ってくれているおかげで床に足跡が残らないことをオレはありがたく思わなきゃならないんだろうけど、正直に言うと埃より匂いのほうが気になるんだよな。
それにしても、小さな明かりだけを頼りに真夜中の屋敷の中を歩くのはなかなかにスリリングだった。
十七年間ずっと住んでいた家なので、暗闇の中でもおおよその間取りはわかるけど、身体が覚えている感覚で歩こうとすると、歩幅も腕のリーチも違っているので、逆に混乱しそうになる。
階段を上りきったオレはゆっくりと二階の廊下を歩き、その突き当たりにおまけのようにくっついている細い階段をさらに這うようにして上った。そうして廊下の天井についた扉を押し開けば、ぽっかりと真っ黒な大きな洞が現れる。
そこは構造上できるデットスペースを納戸として使えるように作られた屋根裏部屋で、オレが実際に子供だった頃は、二階にある子供部屋とは別に秘密基地として使っていたところだった。
床面積が三畳ほどの三角錐状の空間には、天窓と、剥き出しになった太い梁を利用して作った造りつけのベッドしかない。そのベッドも梁と壁との間に板を渡して釘で打ちつけ、その上にマットレスと布団を敷いただけの簡易なものだ。
しかも寝られるのは小学生──それも低学年限定というような狭さで。
このベッドの制作者の親父は、オレが寝られなくなれば棚として使えば良いと言っていたらしいが、多分作ることに夢中になりすぎて、先のことなんて考えてなかったんだろうというのが、オレと母さんの共通した見解だった。
そんな話はともかく、屋根裏部屋に這い上がったオレは、まずは大事に抱えてきた本をベッドに置いてから、扉部分の床板を元通り平らにする。それから、ふたたび出入りするようになってから持ち込んだスタンドをつけた。最近新しく買ったものだが、コンパクトなボディの割にかなりの光量が確保できるので、結構重宝している。
けれども、外にはこの光は漏れていないはずだった。というのも、ここを利用しようと思いついた時、博士に頼み込んで天窓部分にちょっとした細工をしてもらってあるからだ。
細工といっても博士お得意のメカは一切使わず、窓の内側に遮光カーテンをかけ、雨戸を取りつけるという、ごく一般的なものだった。
ただちょっと普通と違ったのは、雨戸というのは本来窓の外側につけるものだけど、オレが頼んだのは内側で。この場合、鎧戸というほうが正しいのかもしれないが──とにかく簡単な処置ではあったけれど、内側から窓を覆い隠せるようにしてもらった。
おかげで窓を開けたい時には結構手間がかかる。
ちょっと換気がしたかったオレは、なるべくもの音を立てないように気をつけながら、鎧戸についた錠をそっと外した。
他人の家の屋根を観察している物好きはいないだろうと思いながらも、オレは念のためにスタンドを消し、腕時計型ライトの明かりだけで作業をした。
カーテンをめくり、外開きの窓を開ける。
そうすると、もともと天井が高い設計になっている屋敷の屋根裏は風の通りがかなり良いので、狭い部屋の中の空気はすぐに夜気に洗われてしまった。
カーテンを開ける時にライトも消してしまっていたので、オレは月明かりが射す薄暗がりの中でしばらくぼうっと空を見上げていた。
月が出ていて星はあまりたくさん見えなかった。
けれども、最近はこんなふうに夜空を見上げること自体ほとんどなかったから、何だか新鮮さを覚える。
屋根裏に籠もっていた空気が入れ換えられると、部屋の中の温度が一、二度は低くなったような気がした。
冬にこれをやると辛いだろうな、とオレはかなり気の早いことを考えたりもして。
いまの生活は、以前に比べて絶対的にひとりになれる時間というのが少なくて、たまにこんな時間を持つと、無自覚だがかなり窮屈さを感じてるんだな、と実感した。まぁ、子供っていうのは大人の監視下にあるもんだからしょうがないんだけど。たまに、息が詰まりそうな気がすることはあるよな。うん。
そろそろカーテンを閉めよう──そう思うまで、オレにしては珍しく、結構時間がかかったかもしれなかった。もしかすると実際はほんの数分のことで、そう感じただけなのかもしれないが。
ともかく、窓を開けたおかげで気分が良くなったので、オレはこれはこのままにしてカーテンと鎧戸だけをきっちりと閉めようと決めて立ち上がった。
作品名:ERROR DETECTION 作家名:にけ/かさね