はじまりは 驚愕と困惑と
ひんやりと、つめたいものが額に触れた。
熱を確かめるようにしばらく置かれていたそれは、やがて前髪に触れ、さらりと梳き始めた。
「……」
さらさらと、心地よい感触が頭の痛みを癒す。
撫でられる猫の気持ちがわかったような気になったところで、勝真はゆっくりとまぶたを開けた。
天井。
どこかの屋内。
通りの喧騒から程遠い、静寂の広がる空間。
「…ここは…?」
ぼんやりとつぶやくと、ばっ、と手が退かれた。
と同時に、勝真の髪を梳いていたあの心地よい感触が消える。
それを残念に思って、勝真は手の主を見上げた。
「――」
え?
「…気がついたのか」
小さく息をついて、彼は勝真を見下ろしていた。
「――頼忠…!?」
驚いてがばりと起き上がると、ああ、と頼忠が勝真から僅かに身を引いた。
「ここは川近くの寺だ。事情を話したらあまり動かさぬ方が良いと言われたので、宿坊をお借りしている」
見渡せば、確かに寺の中のようだ。
「だいたいの事情はあの子供から聞いた。家は近くだというので帰らせたぞ」
「子供…?あ、人形…」
「お前が握っていたものだろう?自分のだと言うので渡してある。礼を言付かった」
ああ、そうか。そうだった。
目の前で人が川に落っこちて、あの少女もさぞ驚いただろう。
ハッ、と我が身を見下ろすと、着物が質素な小袖に変わっている。
顔に出たのか、濡れていたので勝手に替えさせてもらったと声が掛かった。
「…お、お前がしたのか?」
「着替えはこの寺のものを借りた。お前がもともと着ていたものは向こうに置いてある」
…返事になっているようななっていないような。
というか、そもそも。
「お前…何でここにいるんだ」
あの川は紫姫の館から院御所へは逆方向だ。
あの後辞したのだとしても、たまたま居合わせるなんておかしくないか?
不審さに僅かに落ちたトーンにも、しかし頼忠は特に表情を変えることなく勝真を見つめ返す。
どういう意味か、掴みかねているようにも見えた。
「だから…帰り道じゃないだろうが、あの川は」
「…、ああ」
頼忠は合点がいった様子を見せると、そのまま何やら考え込んでいるような顔になった。
いや、正確には勝真がそんな気がするだけで、実際にどうなのかはわからない。
彼はしばらく勝真を見つめたまま微動だにせずいたが、その後目線を下に落とし、それから天井を見上げるということをした。
その間、無言。
(…何がしたいんだよこの男は…!)
こちらは質問を提示したつもりだったが、もしかしなくともスッパリ無視されているのだろうか。
どちらにせよ世話になったのだから礼を言うべきとは思うが、何故この男に俺が!と思わないでもない。
川に落ちたのは自分の不注意で、一歩誤れば今頃黄泉路かもということを差し引いても、だ。
と、いきなり頼忠が身じろぎした。
「?」
顔を向けると、彼は自分に向かって頭を下げていて。
「…!? な、」
ぎょっとした勝真と、ほとんど同時に口を開いた。
「なん…」
「すまなかった」
……。
「…え?」
「先程の、館でのことだ。その…お前が怒るのは尤もだ。失礼をした」
深々と。
頭を下げられて、勝真は唖然とした。
まさか謝られるとは思ってもみなかった。
「…それを言いたかった。その、もっと早く声を掛ければよかったのだろうが…」
頼忠は頭を下げた体勢のまま、淡々と続ける。
(お、…俺にそれ言うために…?)
追いかけてきたのか。
で、自分が川に落ち込むさまを目撃した、と。
「……」
そんな風に言われたら――誰だって、悪い気はしない。
はーー、と勝真はため息をついた。
それを察して頼忠が顔を上げる。
「悪かったな」
勝真はぶっきらぼうな言い方で、頼忠をまっすぐに見つめた。
驚いたのか頼忠は僅かに目を見張る。
「…だから、俺も悪かったよ。ただ興味あっただけなんだが、触られるほうはいい気はしないよな。俺は帝側だし…」
がしがしと後頭部を掻きながら、勝真は続けた。
「世話も焼いてもらって、…助かった。これからは院側のお前と関わるようなことはしない」
頼忠はそこまで、ふと眉を寄せた。
「…何故、そこで院側だとかいう話が出てくるのだ?」
「え?何故って…それが理由だろうが。違うのか?」
勝真が返すと、頼忠はしばし勝真を見つめたまま、動かず。
「……」
「……」
「…違う、と…思う」
ややあって、それだけぽつりと言った。
「…違う、って」
じゃあ何だよ、と勝真も眉を寄せる。
頼忠は困ったような顔(当人比)をして、再び考え込むように下を向いた。
「……」
「……」
勝真にしては辛抱強く、待った。
その甲斐あってか、頼忠はもう一度顔を上げて勝真を見る。
だが、発された言葉は。
「すまん、よく…わからない」
ガク、と肩を落とすのも仕方がないと思う。
頼忠は取り繕うように、慌てて言葉を続けた。
「だがお前が帝側の者だから嫌だったとか、そういったものではないと…思うのだが」
「…ふぅん?」
いきなりだったから驚いたとでも言うのだろうか。
そんなタマには見えないけどなぁと思いつつ、まあ本人が言うのだからそうなのだろう。
「あー、んじゃ何か。予告すりゃ触ってもいいのか?」
「? あ、ああ…?」
ぱちぱちと、動揺したように瞬きをする頼忠をよそに、勝真は手をのばす。
先の一件と同じように、そっと…というよりはズイッと。
「触るぞ」
その手の甲に、触れる。
頼忠はビクリと僅かに身を震わせたものの、あの時のように振り払いはしなかった。
「……」
つめたい。
ひんやりと、夜の風を連想させる温度に勝真は目を閉じて。
開ける。
(ああ…そうか)
さっき、髪を弄っていたのはこの手だったか。
「……」
指先を見つめたままぼんやりとしている勝真に、頼忠が声を掛ける。
「…勝真…?」
「!」
はっ、と顔を上げる。
頼忠は何だか居心地の悪そうな表情で座っていた。
「…つめたいだろう?」
「え?」
ぎゅ、と眉を寄せて。
「私とお前の間にはこれだけの差があるのだな…」
ああ、と勝真は思い至る。
確かに同じ人間でこの差はちょっとない。
こうして少し触れただけでは温まりもしない、彼とのこの温度差。
「これだけの差があっては、お前を不可解だと感じるのも仕方がないのかもしれない」
本人目の前にそんな。
「不可解って…そりゃこっちのセリフだ」
勝真が言うと、何故か頼忠はふと笑った。
「…だろう?お前が先程言ったように――我々は関わらないほうがいいのかもしれないな」
意外なほどに、優しい声色で。
そんなことを言う頼忠を、勝真は信じられない思いで見つめた。
そう…、なのか…?
作品名:はじまりは 驚愕と困惑と 作家名:秋月倫