安達が原
辰馬は声に反応してすぐ振り返り手を延ばしたが、間に合いはしなかった。それほどまでに私は遅れていた。手を貸そうとする辰馬に大丈夫だと言ったが、立ち上がろうとした足に痛みが走る。もう随分と前から足が痛いのを知っていたのではないかと思うほどに、辰馬は無言で素早く腕を取り、傍を流れていた小川の縁に腰を下ろさせた。
足を洗うのと、替えの草鞋を履くのと手の血を流すのとをすべてひとところで出来たのは在り難い。天の采配と言うべきだろう。いや、草履の緒が切れて采配も無いか、埒も無いことを思いながら、草履を解き脚絆と足袋を取ったとき、辰馬が思わず舌打ちをしたのを聞かぬふりをする。
潰れた肉刺は血と体液が出ていた。潰した筈の水疱は同じ場所に水泡が出来てまた潰れていた。外気に触れて冷やりとした後、火傷のような痛みが走る。
辰馬はそれを見ながら、言うてもきかんろうの、そう独り言ちて空の水筒に小川の水を入れに行った。すまないと受け取ろうとしたのだが、無言で私の足首を掴み、ゆっくりと水をかけ傷口を洗う。霜月も末、川の水は肌を刺すように冷たく、思わず痛みと冷たさで声が上がった。
足の皮がべろりと剥けて落ち、痛みがじんじんと脈を打つ。いつからじゃと尋ねられたが、今日の昼にはもう既に痛かった。おかしな歩き方をしたからだろうかと思ったが、辰馬はまっさらな手拭を出すと水滴のついた足を丁寧に拭いた。それこそ、指の股まで。
「足が湿ると、肉刺ができるきィ」
暫くそうしちょれと片足だけを裸足にさせ、血と体液で汚れた足袋を小川の水で洗い始めた。もうすぐ日が落ちてしまう。次の宿場町には一里はもう無い。半分は来ている筈だ。日が落ちない内に宿へは入りたい。
「歩かせられんぞ」
厳しい声で辰馬が言ったが、威勢よく歩けますとも言えなかった。事実私は随分遅れを取っていたのだ。昨日のスピード、いや、辰馬だけならばもう宿場町について足を伸ばして風呂に入っていただろう。私だけが疲弊しているのは紛れも無い事実。役に立たんのと溜息を吐きたいのを堪えて足元を見た。日没間近の街道はもう人影も少なく、影がだんだんと深くなる。
足を引っ張っている、と思う事は簡単だが口に出すのは憚られる。万が一にも口に出せば辰馬は否定するだろう。本心であろうが無かろうが否定する。その否定が耐えられない。諦めなのか楽観なのか、そのどちらだとしてもだ。
期待されることに応えられないとは相手を失望させていることと同意だ。少なくとも、辰馬の真意は兎も角としても、今の自分は役に立たぬ、足手纏いと言う有様。醜態には耐え難い。自分で自分に失望していた。
情けない己の影を見ていたら益々惨めになった。柄にもなく心弱さも手伝い、じわりと涙腺が緩みそうだったので空を見上げた。湿った目が乾けばいいと、わざとしっかり目を開けて。
「あ」
思わず声が出た。辰馬が此方を見た。
「ありゃぁ、なんなが」
声に反応し、指を差した方を辰馬は見る。目を眇める。あそこだと何度も指を差すが分からぬらしい。手に持っていた足袋を絞ると、辰馬の指先が真っ赤になっていた。固く絞った足袋の水滴を飛ばし、手を袴で拭いた。視線を固定しながらも首を傾げたが、ほれ、あこ、と指さす。辰馬は私の後ろにしゃがみ視線を合わせるように、私の指先の先、天を仰いだ。
「あの光るの、なんじゃろうか」
辺りは暗くなり始めているのに、西の空はまだ明るさを残している。夜と昼の堺にうっすらと帯のような銀色のものが見える。霧のような淡さで、うっすらとした帯状のものが。
虹だろうか。夜に虹が掛かるものか。だが、橋の様に掛かるそれは紛れもない虹だった。
虹のメカニズムは知っている。光が大気に浮遊する水滴によって屈折反射するときに見えるのだ。あちらの方は、雨が降っているのだろうか。でも、こんな夜も間近に。
辰馬が、すぅと息を呑んだ。そのとき、冷たい手が、目を覆った。反動で、辰馬の胸に背中を預けてしまう。余りに不意打ちだった。
「見ちゃァいかん」
不意に辰馬が掠れた声で言った。
後ろからそっと目を覆う大きなてのひら。
東から迫る夜。
被さるように、背中に、彼の胸がある。
驚くほど冷たい掌と、背を預けたままの胸が私の体重を受けても微動だにしなかったことに驚いた。
私は暮れかけた空を見上げたまま、目隠しをされたままなぜかと問うた。よせとも、言わずに。
「夜の虹は、人が死ぬ」
呪文のように唱えた。酷く静かに言ったので、言葉の真意を掴み損ねた。
何を、言っているのか。
昼間の虹とは違って淡い銀色だった。凶兆という意味なのか。
さぁ、知らない、夜に虹が見えることすら知らなかった。
私は、信心を持たない。無宗教だ。付き合い程度で初詣やら祭には参加しても、神仏の在り処をこの世の何処にも求めていない。辰馬も信心などとんと持たないと思っていたのに、おかしなことを言うとぼんやりと思う。思いの外広い胸に身体を預け、長い腕に包まれるようにしているからだろうか。思考の筋に横槍が入る。普段なら一笑に附すところだが、酷く優しげに言うから言葉を思わず探してしまった。
迷信だ、何処の宗教だ、腹が減りすぎて頭がおかしゅうなったがか。けれども手を振り払いもせず辰馬の手の冷たさを感じていた。
「おんしは見ゆう」
「ワシはえぇ、見えんきに」
辰馬は夜目が利かないのだという。近目の一種だと言うが、よくは知らない。自分が見えている世界と他人が見ている世界が違うなどと、考えたことがなかった。私の「世界」は明瞭で細部まではっきりとしている。近くのものはもちろんのこと、はるか何光年に輝く六等星も。見えないものは無い。
あの、虹が見えないのか。そう思うと、酷く残念なことのように思えた。うっすらとした銀色、薄く透けた空の向こう、半環状の橋のようでとてもきれいなのに。けれども、見てはいけないのだと言う。ひとが死ぬから、誰かが死ぬから。
「おんしゃァ変なことを知っちゅうのぉ」
このおかしな体勢を維持したまま辰馬は動かない。だから言葉を探した。
「ロマンチストやき」
笑うような声がした。くすぐるような、優しい声だ。耳の傍に辰馬の手首がある。肌が耳朶に触れた。そこもまた冷たかった。
「糞の役にも立たんことばっかり知りゆう」
おなごがほがなことを言うちゃぁいかんち、窘める様に言った。この男はいつもそうだ。男も女も関係ないといいながら、女が下品なことを言うんじゃない、安う見られるきィとやんわりと諭すのだ。
大きな掌は半ば顔を殆ど覆ってしまう。冷たい手はそれきり動かなかった。探す言葉もなくなってただ黙った。
辰馬が今見ているものはなんだろうか。
夕暮れの影の濃くなる景色だろうか。
東の闇の濃くなる空だろうか。
それとも自分の内なる目蓋の裏か、そこにはなにが見えたのだろう。
昨晩の様に、魘されるほどの哀しいものでなければいい。
霧雨が頬に当たる。嗚呼、やはり雨が降っていたのか。虹はただの自然現象だ。光が屈折してそう見えるだけに過ぎない。一粒だけ、大粒の雨が頬に零れた。覆われた掌の所為で雨の様子は分からない。目蓋に透けぬ月の光も辰馬の厚い掌に遮られている。
「陸奥、背負っちゃるきィ、宿までもつか」