安達が原
癖毛の黒髪を撫でてやる。犬猫のようにするなと怒られるかもしれないが、子供がうなされたりしたときこうやって触ってやると落ち着く。図体は大きいが陸奥の膝を逃げぬように抱えて眠る辰馬は男というよりも子供のようで、どういうわけか身の危険を感じない。指先に湿り気を感じた。汗をかいている。衝立の上に掛けられた手拭に手を伸ばし、首を拭いてやった。冷たかったのか微かに首をすくめたが、何度か背中を撫でたら落ち着いてまた穏やかな呼吸を刻み始めた。
仮に、彼の中で。
何がのたうちまわっているかは知らない。恐らく言わない。ふとももが気持ちいいといったのもあながち冗談ではないのだろうが、それは嘘。うつ伏せるように眠っているその背中をさすってやる。今夜は眠れても、それでもまた同じ事があれば魘されるのだろう。多分ずっと着いて回るのだ。
分断されることの無い嘗ての己も、記憶も、時間も。光が在るところには必ず自分の足もとに出来る影のように。
此の男は、まるで真昼の星のようだ。昼も夜も、宙には星があるのに、陽の光が明るすぎて昼の間は見えない。そしてそれを誰もが知っているのに気にも留めぬ。見えないから誰も気が付かない。
真昼の空に目を凝らしたとき誰かが苦し紛れにあるいは何かを見間違えて見えたと叫ぶような、そんな不確かさ。陽気な笑い声と楽天主義者の顔で皆を煙に巻きながら夜には孤りで悪夢に苛まれる。
それがどんな苦しみなのかは知らぬ。知っているのは此の男とともに戦場にいた者だけだろう。それが今どこに、どれほどの者がいるのかは知らぬ。或いはもう誰一人として居ないのやもしれぬ。自分には共感することもその深淵を覗き込むことすら許されぬ。
どれくらい経っただろう。辰馬がすぅと眠りに落ちたのが分かった。撫でるのを止め、その背に掌を置いた。
体温が戻っている。よかった。しかし、ひょっとしたら自分自身のぬくもりかもしれないが、それでも構わぬ。
辰馬の横顔は己の影の中にあってよくは見えぬ。どんな顔をして眠るのかは見えなかった。静かな息の音がしているから、見なくともよい。
私は見たくは無い。真昼の星など。
夜になれば見えるものを、目を凝らして暴くように昼間の空に探し出さずとも。夜になれば星は見える。時が来れば目に見える。昼間の星など見なくとも、夜にはそこにあるのだと知っているから。
だから私は見ない。探さない。目を凝らしもしなければ、あると嘯くこともしない。
鳥の子紙の向こうに見える月明かりが今日は酷く眩しい。今日は月が明るくて星は見えぬだろう。
けれども私は知っている。
暗い空に、真昼の空に、星は変わらず瞬く。
名も無き小さな無数の屑星も、眩しい昴も、確かにそこにあるのだと。
見えなくとも。
目には、映らねども。
<3章=【安達が原】 −夜の虹には目を塞げ−>
柄にも無く 悪夢を見た
人がばたばたと死んでいく。
昨日まで生きていたものが次々と死んでいく。夢ではないのが悪夢だと言う所以。矛盾ではない。それこそが体感する唯一の現実で、忘れえぬ場面が順繰りに繰り返される。
剣というものは、命の遣り取りをするのだと侍は言う。
いいや、あれは命の遣り取りなどと言う高尚なものではなかった。やぁやぁ我こそはと名乗りを上げて戦っていた頃ならいざ知らず、睨み合いの末生き死にを決するようなものではなかった。
暴力的で野蛮で無闇矢鱈に鋼の棒を振り回し、鉛弾の雨の中を走っていく。泥の中を駆けずり回り、死にたくないから他人を斬る。思想、建前、大義、言葉にすれば崩れ落ちるような安っぽさだ。炎の雨が舐るように周りを囲み、熱いよう、苦しいよう、お母さん、助けてくれ、死にたくない。侍も、子供も、大人も、年寄も、誰彼構わなかった。命の重さが平等だった。戦場においては、その軽さは水鳥の羽のようだった。
我々は蹂躙された。命を、蹂躙された。
忘れえぬ場面だ。悪夢と言わねば、耐えられぬほどの場面。夢だとでも思わなければ崩壊の臨界点を簡単に超えてしまう。生涯一度きりであって欲しいと切に願う場面が、毎秒繰り返されて神経を麻痺させる。それが延々と、繰り返される。
ぼくは、つかれたのです。
わかれをいうのに。
皆疲れていた。
人が死ぬことに疲れていた。
命を奪うことに疲れていた。
自分が死ぬことに脅えるのに疲れていた。
みずがのみたいのです。
燻る焦土、天に昇る煙、生き物が焼けた匂い。
自分は死んでいるのか生きているのか分からない。
少なくともとても喉が渇いている。
わたしはとてもみずがのみたいのです。
雨を降らせて呉れはしまいか。
そう願うも雨は降らなかった。誰そ彼の空に虹が掛かった。
夜に掛かる虹の言い伝え。
青白くうっすらと、夜の空に掛かる光の帯。
今此処でそれを見ているものがどれほどいるだろう。
命の容れ物だったもの。
いくつも、ぼくのまわりによこたわる。
*
「あ、」
歩き疲れた。昨日の疲れが抜けていないのに、此の強行軍は少々辛い。だが、あと一里は無い。次の宿場町に到着するのも、もう時間の問題だ。陸奥は懐から懐中時計を出した。歩みの速度は確かに昨日よりは落ちている。
昨日は眠れなかった。眠れる筈が無かった。辰馬の冷たい頬が膝の上にあった。少しだけといった辰馬はなかなか離してくれず、此方がうつらうつらしてきたところまでしか憶えていない。けれども、朝目が覚めたらちゃんと自分の蒲団に入っていて、辰馬は陽気におはようさんと着替えを済ませていた。昨晩のことなど、微塵も感じさせぬほどの快活さで笑った。
昨日の夜弁当を頼んでおいたのでそれを受け取り、宿代を支払ったあと、好意だと言う握り飯を朝飯にと貰った。日がまだ昇りきらぬうちから歩き、日が天の真上に昇りきったところで昼食にした。
速度が落ちている。
お互いに、と思いたいが辰馬は此方に合わせてくれているかも知れぬと陸奥は思った。休んでいる間も、気を紛らわせる為にお喋りする体力をまだ残している。こちらは寝不足もあってそれに相槌を打つ程度しか出来ない。
それに、強行軍の所為で足の肉刺が潰れた。痛みはあるが進めぬほどではない。それらはすべていい訳にしか過ぎない。理由だ。正当性を求めるものではなく、自分で自分を追い詰める為の理由。
季節柄、日が落ちるのが早い。太陽が真上にあったと思ったのも束の間、日が翳り始めるにつれてひんやりとした空気が足元からじわりと這い上がる。冷えは体力をも奪う。あとどのくらいで着くだろうと思いながらも、前を歩く辰馬の背中を見ながら追いつくことに専念した。自然と下がる視線に自分自身も辟易として、顔をわざと上げて歩いたが、それを挫く違和感。
「あっ」と発した思いの外華奢な声は自分のものだった。
前のめりにつんのめりながら、草鞋の緒が切れたのだと分かった。踏ん張ろうにも肉刺の潰れた足では自由が利かず、砂利道に思わず手を着いた。掌に血が滲む。