安達が原
私は丸腰だった。いや、正確には坂本がくれた拳銃を懐に持っていた。そいつをどこから手に入れたものかは知らないが、奴が此の旅へ行く前に護身用じゃと陸奥に渡したものであった。一度なり撃たせてもらったが、撃った時の強い反動で目標などを狙える筈もないものだった。
何の役に立つのかと聞けば、脅しじゃ脅しと言っていたが使う機会なぞ無く、ただ重いその塊なぞその辺にうっちゃって置いても良かろうとさえ思わせた。こんなところで必要になろうとは。しかしながら其れを抜くことを忘れていた。懐に在ると気が付いたのは事が殆ど済んでからである。
坂本は初め逃げ腰だった。いつもどおりへらへらと笑いながら、ほがなもんを振り回してどうするというがかぇ、などと笑った。いや、あんなときに笑えると言うことは今思えばそうではなかったのかも知れぬ。
言葉の通じぬ相手に何を笑っているのだと少し苛だったが、どういうわけか連中と自分の間にいつの間にか入り込んでいたので、視界には坂本の背中しか見えなかった。
その時、坂本の左手が合図するように後ろへ下がれとでも言うように振られたのを見た。下がって居れということなのか、其れとも逃げろということなのか判じかねたが、此処でやいのやいのと言っても埒は明かぬ。じりり、砂利を踏むように半歩後退しようとしたとき、三人のうちの一人が雄叫びを上げた。問答無用といったのか咆哮なのかは分からぬ。もうその時には自分は背を向けていたからだ。何が起こったのか正確には判断しかねた。
二人が坂本に斬りかかり、一人が私を追ったのだろう。気が付いたときには後ろで括った髪の毛を引っ張られていた。痛いと思って振り返った矢先、まるでバネが切れた発条細工の玩具のように、今まで髪を掴んでいた手が急に力を失う。その反動で地面に突んのめった。状況を把握しようと急いで顔を上げると、空に何かが舞っていた。
そいつは。
私の一房の髪の毛と、人間の指だった。
余り血は出ていなかった。まるで小石でも弾き飛ばすような軽やかな動き。赤い襟巻きが目の前を掠め、通り過ぎる。一拍置いてものすごい呻き声が上がる。斬られたかと呼びかけようにも上手く声が出ない。地面に転がる二本の指。小さな音を立てた。
誰が斬られて、
誰が斬ったのか、
そして次は誰なのか。
目の前に天を衝くような大男が立った。斬られるのか、それとも首を刎ねられる前に何かされるか。男は背をこちらに向けていた。太陽が真上にあるから濃い影の中に顔がある。その背の主が坂本だということに一秒かかった。そして今しがたその指を刎ねたのが誰なのかも。
言わなくとも判った。
「去ね」
威嚇を籠めて殊更低い声が唸る。
「命まではとろうと思うちょらんき」
おんしは誰じゃ。
あしが知っちゅう男なが。
いつもの暢気な声ではなかった。初めて聞く精悍な声だった。夢想家でも虚言家でもなくあれは。
あれは。
恐らく。
「陸奥、メシじゃ」
突然肩を叩かれた。目を開けると朽ち掛けた天井があった。そして見慣れた男の顔が十センチと離れぬところにあった。眼が悪いのか何なのか、こいつはすぐ人の傍に寄りたがる。それが昔から少し苦手だった。
「近いがやき」
傍に寄った肩を押しのけ、起き上がろうとするが未だ頭が痛む。手を着きようよう身体を起こして見渡す、部屋の中が随分明るかった。囲炉裏で火を焚いている所為だと判った。いつの間にか着ていたマントのボタンは外され衿も少し緩められていた。喉が渇く。それを察したのか。どこから拾ってきたものか欠けた椀に白湯を差し出され、それを大人しく飲み干した。
「食わんか?」
杣の親爺に貰った握り飯を差し出された。食わねば明日は歩けまい。食欲なぞとんと無かったが、一口齧った。
ぱちと薪の爆ぜる音。破れ障子、歪んだ桟。風が甘く叩く度にカタカタと鳴る。坂本は一人で何事かくっちゃべっていた。一人で喋って一人で納得して一人で騒いで、相手をして貰えなければ、つれんのうなどを言いながら大笑いしてどうでもいい事を更に喋り始める。
陸奥がその垂れ流しの大話に付き合うことは滅多に無い。だが坂本はお構いなしにひっきりなしに喋る。里に下りたら食べたいものやら、随分と寒い季節になっただの、どうでもいい噂話に法螺。陸奥が握り飯をひとつ食べている間それは続いた。もう慣れっこだが、今日はちと違う。
「辰」
白湯を椀に入れ陸奥は一人で話していた辰馬に向き直った。
「こん村は、なんなが」
年がら年中締まりの無い顔からすぅと笑みが消えた。恐らくそれに自分でも気がついたのか、再び表情を取り繕う。だがそれはお世辞にも上手くはなく、それを知ってか知らずか視線を逸らした。
多分。
同じ事を、考えている。
「恐らく」
知っていることを確信に変えるために聞いた。何かを暴こうと思ったわけでは、決して無い。だが、それとこれとは同じことだったのだと同時に思う。
「攘夷志士の敗走兵の仕業ろう」
珍しく静かな辰馬の声が二人しか居ない家に響く。辰馬は目を細めて橙色の炎を見た。その中に、何かが見えるわけでもないだろうに。
あぁ、やっぱりそうか。
来る途中の村の惨状を思い出す。折れた刀、旗竿の残骸、朽ちた旗。あれは恐らく散発する志士たちの御旗のひとつだった。
「下関やらは酷い有様じゃったゆうき」
部隊をはぐれたか壊滅したか、散り散りになって逃げて敗残兵狩りから逃げおおせ此処まで来た。先の不安と死の恐怖。敗北心と飢えが心身ともに疲弊させる。
「そのうち考え始めるがやき」
どうしてこがなことになったがろう。
何の為にいま自分はここにおるんろう。
腹もすいた。
裏切られた。
誰の為の戦いなのか、何の為の戦いなのかも分からない。
行き場を無くし、追われ追われて山ん中。
「初めに何を思うて戦に行ったのか。なぁんも判かりゃーせんようになるがじゃ」
背負った戦友だった奴が死体になる。
下ろしたところで墓を作る気力も無い。
はじめは錦の御旗の元にと意気揚々だった奴らの成れの果て。鬱憤は腹に溜まっても満たしてはくれぬ。
「人斬り包丁ぶら下げて、半分方死人みたいな奴等じゃ」
飯を頼んで蔑ろにされたか、或いはもう見境なく。
「わかるろう、畜生働きじゃ」
炎を見ていた目を閉じ、眉間を掌で擦った。火の香を吸い込むように、深く息をついた。
「山賊になったか、獣になったか。或いはもう土の下に、」
「やめとおせ」
背中が薄ら寒い。指が握り飯に食い込むのを必死で抑えた。ぎりぎり奥歯を噛んで、聞こえぬように深呼吸した。制した後、少し歪になったそれを無言で口の中に押し込む。無理やりに咀嚼し、白湯をもう一杯欠けた椀に注ぎ、今しがた喉元までこみ上げた言葉とともに飲み下す。
「まぁ、愉快な話じゃーないがやき」
それきり辰馬は黙り、薪をくべようと鉈を探しに外にでた。
*
「火を落すぞ」
飯も食えばやることも無い。明日早くに起きて里まで下らねばならぬ。半日の行軍か、と陸奥は寝転びながら考えた。頭痛はもう殆ど治まっている。ただ頭を動かすとまた痛み出しそうな気はするが。
「あぁ」