安達が原
辰馬が灰を掛けると火が消えた。囲炉裏の灯りに目が慣れていた所為か、急に暗くなった気がした。しかし、その闇に目が慣れると破れ障子から外の月が透けて見えた。
月明かりが随分眩しい。青白い外、底冷えのする夜。映ろう光から逃げるように目を閉じる。途端、昼の情景がまざまざと甦った。光る小太刀、翻る赤い襟巻き、斬りおとされた人の指。
そして、声。
腐っても、北斗一刀流免許皆伝か。竹刀を振り回しても人を斬るには腕より度胸と聞いたことがある。人間は案外硬い。脂肪と筋肉、その内側には骨がある。刃は人間の肉の弾力でまず跳ね返される。何より人を殺す、傷つけることへの畏れが心にストップをかける。心が止まると身体も止まる。ブレが生じる。
だが、あれはそんな感じではなかった。
戦でどれほど人を斬ったか知らん。そんな話をしてくれたことは無い。逆に此方も聞かなかった。知りとうもなかった。初めて見た。人間が人間を斬るところを。
あの男が。
辰馬が。
剣を振るうところを。
「行くぞ、新手が来るかもしれん」
声を掛けられても恐ろしゅうて。
急き立てられるように言われ足早にけもの道を分け入る。背を追うが、さっきのショックとそれを逃れた安堵とが綯い交ぜで、冷や汗ばかりが吹き出た。けれど恐れているとは死んでも知られたくない。こんな些細な荒事を恐れるような人間とは思われたくない。何より辰馬自身を恐れているなどと知られるなど言語道断。
しかし身体は正直で。
足は震え、息は上手く吸えず、冷や汗を絶えず掻き、こめかみが脈打ち、網膜には斑点が明滅した。気がついたら辰馬に背負われ、山道を歩いていた。もう手には剣など持っていなかった。小太刀はもう鞘に収まり、両手は私を背負う為に使われていた。もうその時には、能天気でお気楽で呆れるほどの楽天家に戻っていて、背負われている間、ずっと私を励まし続けた。
どちらが本当で、どちらが嘘でなどとは言わぬ。見たことのあるものと、そうではないもの。
正義の反意語は「悪」ではなく、もう「ひとつの正義」が正しいのと同じように。
目を開け囲炉裏を挟んだところに居る辰馬を見た。同じように寝転がって天井を見ている。眠っているのか、起きているのかは判らない。
「辰」
翻った赤い襟巻きがまるで血飛沫に見えた。私の手を引きひた走る背を畏れた。
「人を斬るのはもうやめとおせ」
死んだらどうすると思ったのは私なのか、お前なのか。
自分が死ぬことが恐ろしいのか、お前を失う世界が恐ろしいのか。
「あしはおんしが斬られゆうところを見とうないき」
多分、どちらも。
辰馬は囲炉裏の向こう側に居て今しがた言ったことなぞ聞いていないように一度瞬きをした。要らん世話やか、そういわれてもおかしくはない。その時微かな衣擦れの音がして、視線を感じた。身体を動かさず顔だけをそちらに向ける。細い月光に踊る細かな灰があちらこちらから静かに舞う。
「ほうじゃの」
辰馬は片手枕で此方を向いて、酷くゆっくりと瞬きをした。癖毛を煩わしそうに後ろへ流しじっと此方を見ていた。破れ障子から入る細い光がその傍を通ってその顔がよく見える。
「陸奥が言うなら、そうしようかの」
怒ってもいなければ悲しげでもない。いい思い付きを褒めるときの顔で、頷いて見せた。普段通りの少々締まりのない顔で、そうしょう、そうしょうと言った。
余りにいつも通りだったので此処があばら家で明日も強行軍で歩かねばならぬことを一瞬忘れた。まるで里におるみたいじゃ、そう陸奥はおもう。背は板間で痛いし酷く寒い。しかし普遍とも思える郷愁のような、それを醸す者が道連れでよかった。辰馬は随分穏やかに笑っており、それに安心した。そのなんでもないいつもの能天気な笑い顔が枕元の銃より何より頼もしいとさえ思う。
同時に此方を見る目は何か愛いものでも見るかのようで、妙に気恥ずかしくてまた天井へ向き直る。そうだ、もうひとつ言っていない事がある。
「それからの」
面と向かうと恥ずかしい。思いついたけれどなんと言おうか。普段はこんなことは絶対に言うことができぬ。
「なんじゃ」
ただ、これを言わねば礼に悖る。
「背負うてくれて、ありがと」
思いの外小声になったが、周りは静かで、がらんどうの家に反響した。照れているのを自覚した後、それを茶化されるのが厭でそそくさと背を向けお休みと外套を肩に掛け直す。辰馬は暫く黙ったあと、なんだ、ほがなこらぁと笑った。
「なぁに、陸奥なんぞ小まいきに」
辰馬は両腕を頭の後ろで組み、背を向けた陸奥を見る。確かに小さい。横に並んでいるときや、頭を突き合わせて仕事の話をしているとき、普段はそうも思わないが、確かに今日倒れた陸奥を背負う時に思うた。
こがぁに小さかったろうか。
酷く軽々として、担ぎ上げるのも苦はなかった。しかし。腕も足も自分のよりもずっと華奢で細いのに、同じ道程を同じ速さで歩いてきたのかと思うとその強靭さに感服もした。
流石ワシの見込んだ女なが。
選んだ相棒が確かだったことを誇らしく思った。だが、そう思うのと同時にどうあっても埋められぬものがあるのだと思う。性差は勿論だが、もっと他にも。
刀を捨てろという。
理由は尤もらしいものだった。
斬られるところを見たくない、か。
では斬るところはいいのかと問えば違うというだろうか。人を傷つけ、傷つけられる戦場に嫌気がさしたのは随分と昔のような気がする。だが、それは高々三年前の事だ。
あの時、沸騰する血の音を聞いた。陸奥に伸びた腕ごと斬り落としてやろうかと思った。気がつけば小太刀は抜かれ、一閃、刃を振り下ろしていた。傷つける事を厭うのに、なぜなのか。理由は判っているがあえてそれは口にしなかった。自分も、陸奥も。
誤魔化した。上手く隠し果せると互いに甘く思う。だから多分、これから二度とこの事は口にしないだろう。予感というよりそれは確信に近い。
外で虫の音がする。随分近く、押し迫るような声。それが少し責められているようで恐ろしい。
「真冬じゃのうてよかったのう」
陸奥の肩が声に反応した。まだ眠っていない。疲れているのだから早く眠ればいいのに。そう思いながら夜の長さを同じくする道連れを見た。
「寒いのう、おんしは」
陸奥はちょっと間を置き、少しだけ掠れた声で、隙間風が酷いがやきと外套の中に足を窄めた。寒さも、夜の深さも、恐ろしいものも。同時に共有する互いにたった一人の相手。
「よし、風除けになっちゃる」
辰馬は勢いよく立ち上がる。ぎょっとした陸奥は同じく振り返った。
「近寄るな毛玉」
陸奥の隣にお構いなしと滑り込み、隙間風の吹き込む方向に背を向けた。丁度向かい合うようにあっはっはと笑いながらまぁまぁと宥めた。
「なにがじゃ、冬山では裸になって暖めあうらしいき」
片手枕で頭ひとつ上から覗き込まれ陸奥はむぅと唸る。その距離は抱き合うには遠く、話をするには近すぎる。空気越しの温度はただ少しだけ暖められ、互いの匂いと埃っぽさと秋の夜の香が漂うばかり。
少し苦い顔をしている陸奥。少しだけ楽しそうな顔をするのは辰馬。
「下心が丸見えじゃ」
「なんの、おんしごとき」
腕を伸ばせば届く。
けれども伸ばしてはならぬ。