安達が原
同時に目を閉じ、互いの姿を視界から消す。感ぜられるのは気配と呼吸。ただそれだけで只管の安堵で満たされる。
矛盾している。だがその矛盾こそが我々なのだと互いに強く信じている。
「明日は早うおきねばの」
「よばれしなや、辰」
あほうゆうなと今宵最後の台詞を吐いた。
*
山の端が金色に縁取られている。木立を柔らかな靄が覆い、虫の音と鳥の声が同時にする。それらが夜から朝へと時間を塗り変えてゆく。陸奥は黒ずんだ櫛で髪を梳かした後、井戸へと歩き顔を洗った。頭はすっきりとしている。頭痛ももうしない。夜の明ける瞬間を見ながら伸びをした。
辰馬はまだ寝入っている。寝相が悪く今朝起きたら羽交い絞めにされていた。脚は絡まり抱き潰すようにして覆い被られていた。息苦しさに目を覚ましたので少々寝覚めは悪かったが、しかしそれで寒くはなかったのだと思うとまぁこのことで文句を言うのは止そうと決めた。恐らく未だ起きはせぬ。寝汚い男なのである。
昨日の礼とばかりに着ていた外套を掛けて遣り、そのまま外へ出る。一夜の宿から廃墟を抜け、昨日は見る事すら叶わなかった村を歩く。朝の清冽な空気に薄気味悪さは半減していた。こうしてみればまだ寝静まる村のようにも見える。
少し歩けば村外れに着いた。そこは荒野で枯れ草が腰の高さまである。だが、どういうわけか一筋踏み分けられた後がある。けもの道ほど細くはなく、自分も別け入れるだけの幅。不思議に思って夜露に爪先を濡らしながら歩くとその理由が判った。
無数の墓が刈られた草原の中にあった。墓石もそれぞれ歪で小さいものや大きいもの。朽ち掛け黒ずんだ木仏が寄り添うている。カサと枯れ草の擦れる音がした。驚き振り返ると昨日の杣がすぐ其処に居た。頬かむりをしていたのですぐには判らず気が付くのに一秒掛かった。
「昨日の」
「よう眠れたか」
親爺はそう言った。
「出んかったか」
「なにがじゃ」
「いや、なにも」
親爺は手に持っていた包みを無造作に渡すと、メシだ、くろうてくれとだけ言い巻いていた手ぬぐいを取った。無数の墓の前に膝を着き、手を合わせ目を閉じた。縁の者でも眠っているのか。それとも、今自分が考えている通りの者だろうか。頭を垂れた背を見ながらそうでないことを祈る。同時に枯れ草を無遠慮に薙ぎ倒しながらおぉいと叫ぶ男が来た。寝ても覚めても煩い奴じゃと、音のするほうを見る。
「むーつー、一人で閨を離れるのは反則じゃき」
朝っぱらから暑苦しい男が、同じように暑苦しい頭をゆらゆらとさせながらこちらへ歩いてくる。長身の為、その姿が良く見えた。手にはさっき掛けてやった外套がありそれを大仰に振って見せた。
「さみしゅうて探してしもうたぜよ」
要らん事を、と陸奥は頭を抱えた。親爺は立ち上がり様、陸奥の顔と坂本の顔をちらと一瞥し、ああと目を伏せるように頷いた。どう考えても要らぬ誤解を与えているに違いない。しかし誤解を解いたとてせん無きことだ。妙な空気の流れを変えようと今しがた貰った包みを掲げて飯の礼を言えと促した。
「おぉ、すまんのう」
大袈裟に喜ぶのは坂本の専売特許である。ただ本人は本当に喜んでいるので大袈裟というにはちと違うが。杣は、なんも出来んですまんとだけ言って顔の前で手をひらりと振った。
「墓参りなが」
坂本は碑を見ながら尋ねた。杣はあぁとだけ言い、並ぶそれらを同じように眺める。虫の声と風の音が三者の間を流れた。坂本は神妙な顔で立ったまま手を合わせ、少し遅れて陸奥もそれに倣った。黙祷のあと、目を開けた瞬間その端に眩しい光が入り込む。
「夜が明けるの」
太陽が昇り始めた。山の際を一際明るく黄金色に染め、姿を一気に現す。頬に当たる太陽の暖かさが滲みるようだ。その眩しさに皆が同じように目を細める。夜を淘汰した、目が潰れるほど眩い朝。其処には夜の恐ろしさもなまめきもなく、ただ今日が始まるのだと言う事だけがひたすらはっきりとしていた。
夜を過ぎれば朝。
何が起こっても、誰がどうなろうと。
世界の法則は無情に続く。
「ほや世話になったが」
親爺にこの先の道を聞き太陽を背負いほいじゃぁのうと手を振った。軽やかに踵を返し来た道を戻る。陸奥は少し頭を下げその背を追った。坂本は持っていた外套を陸奥に投げて寄越した。それを羽織りながら隣に並ぶ。荒野を抜け一夜宿までの道すがら辰馬がぽつりと言った。
「あん男、この辺の人間じゃないがよう」
ざくざくと足音が追いかける。
「元は武家、かの」
頭ひとつ上で呟く。
「どうろう、わからん」
靄は太陽がゆっくりと連れて逃げる。
「あん仏さん」
湿った風が温まり乾き始めた。
「いいや、なんでもないちや」
辰馬はそうとだけ言って、一瞬だけ振り返る。眩しいような、何か苦いものを見るような。何に目を眇めたかは陸奥には判らない。ひと言、何をか言おうと口唇が動いたが、それは聞こえぬままだった。陸奥はその横顔を見た。けれどもすぐに目を逸らし支度をするために急ぐ。
「坂本」
前を向いたまま名を呼び急かす。すぐにまた足音がついてきて隣に並ぶ。
「さて、今日こそは綿の布団で寝ちゃる。背中がいとうてたまらんぜよ」
「ほうなが」
太陽が夜を洗い流す。
「今夜も一緒に寝ちゃろうか」
「あほをゆうがやない」
今日が始まった。
<2章=【安達が原】 −真昼の星−>
それでも、私は、そっと羨む
「一部屋、かえ」
はいと言う返事とともに、旅籠の番頭は申し訳なさそうに頭を下げた。辰馬は旅装束のままさぁてと首を捻った。
これで此の宿場の宿は殆どあたった。昨日は野宿である。しかもどうにも「出そう」な場所で一晩藁布団で過ごした。今日は綿の布団で眠りたい。
戦場から離れ宙から此の星を見てやろうとその準備とばかりに郷里へ戻り、実家の商いの手伝いを本格的に始めて二年余り。漸く「何を」するのか形になって、合間々々に準備を進め資金繰りの為に自分以上にこれまた酔狂なスポンサーを見つけた帰り道。
街道沿いに点在する宿場町はその規模の大小はあれど、食べ物屋に旅籠、湯屋に小間物を売る土産物、ここを通り過ぎる旅人の為の茶屋がいくつか。相場は此の位のものであろう。見たところ此の宿場町、規模は然程大きくは無い。五街道のような賑わいは無いものの、此処からあと一日も行けば沿岸部へと繋がる街道へ出る。流石に昨日の今日で木賃宿という気にもなれぬ。
「あしはかまんぞ、坂本」
坂本の後ろに隠れるように立っていた陸奥が表情も変えず言った。正確には隠れていたわけではない。この男が大きすぎるのである。
「ゆうてものぉ」
坂本は己が肩より下にある陸奥の顔を覗く。朱色の縁取りのある濃紺の外套の下は旅装束だが女のものとは違う。自分と並べば大抵の男は小さく見えるので年若い従者でも連れているように見えるであろう。
事実陸奥は少年のような形であった。女の形をして徒歩の旅など余り得手な策ではない。何しろ未だに物騒な世である。見目は役者見習いの若衆のように見えぬことも無かったし、声は変声過渡期の少年のようである。