安達が原
口を開けば不躾ともとれる少々きつい生意気な物言い。陸奥が口で言わなければ初見で女であることを看破するような人物も居なければ、一晩屋根を借りるだけの旅の人間にお前は男か女かと問う酔狂な人物はいない。
陸奥は被っていた笠の顎紐を解いて嘆息し、ちらりと宿の入り口を見渡す。この宿は規模は然程も大きくは無いが飯盛旅籠の類ではなさそうである。坂本と同じ部屋だが同衾するわけではない。違う部屋をとったとしても相手がその気になれば施錠など出来ぬのだから同じことである。
それに、物騒な世の中である。少なくとも隣に腕の立つ男がいるというだけで心強いことも無い。別の意味での心配はあるが、まァ、それはそのとき。それに坂本は己を女とは思って居らぬだろう、と陸奥は被っていた笠を手に持ち変えながら顔に掛かった髪を指で払う。坂本が好むのはもっと年が上の色気が服を着ても滲み出すような女だ。青い小娘になど興味は無かろう。
今朝早くから歩き通しである。しかも昨日は屋根は在るとは言えど野宿となんら変わらぬ場所で眠った。今日こそは足を伸ばせる風呂に入って早く眠りたい。まだ行程は長い。
坂本は陸奥がそう返事をしてもあぁだの、うんだの唸っており、何を察したのか番頭がひそりと耳元に何事か言った。同行の人物には聞かせたくない類のものなのか、それともざわつく入口での騒々しさを慮ってのことなのかは判別はつかぬ。ただ坂本はあっはっはと陽気に笑いながらほりゃァまぁえぇ事を聞いたと笑い、番頭は何かありましたらお声をどうぞという。碌でもない話に違いなかろうと陸奥はそれを横目で見ながら思った。最後にまァ仕様が無いかと独り言ちて、一晩の宿と明日の弁当の用意を頼んだ。
客の多い時期ともあり夕餉の準備が出来ぬといった番頭に、素泊でいいと告げ街の湯屋を聞いた。宿を求める最中、宿場町を横目で眺めたが飯屋はいたるところにあった。一膳飯屋なら酒も多少はあろうと坂本は意にも介さぬ、陸奥は口を利かぬ。
仲居に二階の客室へ案内され、荷を下ろしちらりと部屋を検分する。粗末とはいえぬが上等ともいえぬ部屋だ。少々毛羽立った畳に花の継ぎが或る鳥子紙。相部屋にするときに使うのか、部屋の隅にある竹格子の衝立は色褪せている。ただ掃除は行き届いていたから気にはならぬ。茶の支度をしようとした仲居に、すぐに出るきにとその手を制し、おおきにと言い坂本はにこりと笑った。
老若男女、誰にでも愛嬌を振り撒くのは結構だが無駄撃ちが多すぎると陸奥はいつも思う。そういった主張を体言するように陸奥はにこりとも笑わぬ。陰陽、対になったような奇妙な二人が蔓んでいると周りは言うが当の本人たちは一向に気にする様子は無い。旨い飯屋はどこかあるかの、愛想のいい坂本の言葉に仲居はつられてにこりと笑い、この辺りの郷土料理を出す飯屋の名を数軒教えた。彼の愛嬌はこういうときに役に立つ。
それじゃぁごゆっくりとするりと襖を閉める。
漸く、やれやれと陸奥は荷を解きながら、外に食事へ行くならと湯屋へ行く支度もついでにしておくがよかろうと、小さな風呂敷に洗面用具と着替えを包んだ。
坂本は開け放たれた窓の桟に腰掛けながらぼんやりと空を眺めている。何を見ているのかと視線の先を見れば、一番星が小さく輝く。随分陽の暮れるのが早くなった。ついさっきまで太陽が在った山の際は、もう紫色に塗られている所為で、星が一つ二つ、姿を現す。
ぼんやりしているのはこの男はいつものことだが、疲れもあるのかどこと無くいつもにも増してぼうっとしている。ただ単に腹が減っているだけやも知れぬが。
「どがぁした、腹でも痛いがか」
陸奥は風呂敷の端を縛りながら尋ねたが、返事はいんやぁ、と気のないもの。普段は人の二倍は喋るような男がどうかしたのか。燃料切れか、はたまた善からぬ事でも企むのかは知らぬが、坂本は陸奥が膝に乗せた風呂敷包みを見て支度は済んだかと漸くまともな口を利く。
「飯を、食いに行こうかの」
*
「これ見や」
仲居に教えられた店の一軒の暖簾を潜り、あれこれと注文したあと陸奥は今朝の朝刊を手に取った。差し向かいに座っていた坂本に読めとばかりに一面を差し出した。
「播磨に新ポート整備着工、か」
坂本は注文した酒を手酌で遣りながら細かい紙面の字を拾うのに目を眇めた。
「まァ短距離輸送なら空を飛ばせるよりは船か鉄道じゃの、安上がりじゃし短距離じゃぁ燃料代が馬鹿んならん」
飛びゆう飛行機からパラシュートで落とすわけにはいかんちや、辰馬は笑い、陸奥はそれには返事はせず、にやりとした。
「地価が上がるの、思った通りじゃ」
「おんしゃぁほんまにカネカネゆうて」
目の前の野菜の焚き合わせを肴にしながら、坂本は陸奥が脳内で計算していると思われる勘定繰りを嗜めた。陸奥はなにをと鼻で笑う。
「夢では腹は膨れんし、艦も買えん。艦が買えねば宙にゃァ行かれんちや」
何か文句でもあるかと陸奥が問えば、ご高説ご尤もと坂本は遣り手の部下を持って幸せじゃとあっはっはと笑った。一年半ほど前、或る地域の土地をかなりの広さを購入した。飛び地でいいと坂本は個人の名義で買い漁った。無論、投資の為である。そう、宙を飛ぶ艦を買う為。
播磨に新ポートが整備されることは前々から分かっていた。あのあたりはもともと北前船のルートである。日本海側からの交易品は陸送も無論だが国内物流は量に圧倒的な利のある海上輸送で齎される。最北端の松前を初めとした内日本の品々は敦賀で積み替えられ、関門海峡を通って鞆の浦、玉島、播磨、そして日本の台所大坂へと運ばれる。
攘夷戦争開戦以前、そこで消費されていた物品はまもなく敷かれる鉄道で江戸まで消費市場を拡げる。鉄道なら江戸まで十時間以内に到着するようになるだろう。無論内日本津々浦々の主要都市に鉄道を敷くことは天人の技術を以ってすれば可能だが、肝心の幕府には金がない。人体の動脈のように列島を被う鉄道を作る為には更に時間が掛かる。民間の海運業者がそれを補うようにして物品と人間の輸送を行っているのが現状。
現時点で江戸-大坂間には既に鉄道が敷かれる計画があり工事は順調に進んでいる。そして次はどこへ敷かれるのか。無論その線は南下するはずだ。そのあとは沿岸部沿いに主要な港を線で繋ぐように順次、玉島、鞆の浦、下関。最終到達地点は北九州と伸びる計画は恐らく水面下で進められているはず。
漸くマスコミに対して発表になった播磨新ポート整備のニュースは陸奥を思わず喜ばせた。現時点での地価に換算すれば中古船の頭金にはなるであろう。今からさらに播磨近辺の地価が高騰する。もう一度資産を確認して試算をせねばなるまい。脳内に在る算盤をさらりとご破算にしたところに、お待たせしましたと女中が皿を運び卓の上に夕餉が載せられた。坂本は嬉しそうに頂きますと手を合わせて箸をつけた。
「岡崎さんに礼を言わねばなるまいの」
陸奥も銭勘定はあとにして汁椀の蓋を取りながら言った。岡崎というのは播磨の青年実業家である。実業家などと言えば聞こえがいいが数年前まで山師のようなことをしていたらしい。年は坂本より少々上だが、先だっての幕府払い下げの戦艦を捌いたのが縁で知り合いになったのが半年とすこし前。