安達が原
宙を飛ぶ艦の話をしたらなぜか意気投合したらしく、一個人が艦を購入する方法やらそのための資金繰りやらを色々相談に乗ってくれたらしい。土地を買う際に彼の口利きで購入できた地域もある。さらに資金を投資する為の法律擦れ擦れのところを内緒だと言って指南してくれたこともある。坂本も相当な際物だがこの岡崎と言う男も相当である。大法螺吹きと言われてもおかしくない坂本を妙に可愛がるので、不思議に思って聞けば、オレは根っからの博打打ちだからなと笑った。
「帰りに寄ってみるがか」
此処から播磨までは港を経由すればすぐである。少し遠回りにはなるが回れぬ距離ではない。商売事には争いは要らぬ。代わりに要るのは礼である。恩は受けるものではなく売るもの。あの岡崎と言う男はあっちこっちへ種を撒いている。刈り取る時期を待ちながら一番肥った頃に恩恵を受けようと。そろそろこの恩を返さねば、あとで返すものが莫大になられても困る。兎も角は礼だ。
どうかの、そう呼びかけたが坂本は新聞も読まず、通りがかった店の女中に、お姐さん、お銚子もう一本と尻でも触りそうな勢いでにこやかに笑いかけた。年増の女中に窘められながらあっはっはと陽気に笑っている坂本に思わず舌打ち。おんしゃぁ聞きゆうかと睨みつけた。
「聞いちゅう、岡崎さんろう」
今江戸じゃ、確か、と炊き合わせの牛蒡を口に入れた。帰ったら礼状を書かねばと言い、頼むのと気安く言った。坂本は普段からぼんやりとしている。きいているかと聞かれて、なんだと問い返すことも多いが、けれども肝心なことは聞いている。しかし普段から能天気であるが今日の様子はちとおかしい。躁と鬱を数秒置きに繰り返すような。女中がお待ちどうさんですと酒を運んできた。おおきにおおきにと空のお銚子を渡す。
「それで終いにしときや、二合呑みゃァえいろう。大尽旅行やないき」
苦言は聞いていないふり、無論聞こえてはいるのだろう。溜息を吐きながら陸奥は少し温くなった椀を啜った。辰馬はまだ白飯を食ってない。
「今日晩は早う寝やー、昨日、おんしゃぁ余り寝られんかったろう」
昨日は屋根があるとはいえ野宿同然であった。寒い季節に堅い木の床。思う存分冷えたし今日は歩き通しである。肉体的な疲労がこの男の様子を変えているのではと思い尋ねたがあぁうん分かった分かったと言う生返事。
勝手にするがいい馬鹿者め。
陸奥はそれから一言も口を聞かず、さっさと夕餉を掻き込むと金子を卓の上に置き、あしは風呂に入って寝ると言い残して店を出た。
*
畳を引掻くような音がした。
眠りは浅いほうだと思う。目を開ければしんと静まり返っており月明かりが眩しかった。
何の音だ。
店を出た後、街にある湯屋へ行った。どうやら此処は冷泉だが温泉があるらしく、湯屋というより立ち寄りの温泉として営業しているらしい。内風呂のある宿が多い所為なのか時間がずれていたのか、兎も角人も少なくゆっくりと風呂に入れたのは幸いだった。一日ぶりの風呂は寒さと疲れで硬直した身体を解して、うっかり浴槽で眠りかけてしまった程に。慌てて髪を洗い湯屋を出たのが坂本と別れて一時間は経った頃だっただろうか。宿に戻り部屋に戻ると誰も居らぬ。あの馬鹿がと自然に口を吐いて出た。その辺にしておけと言ったのに。
思わず先ほど別れた男の生返事を思い出し陸奥は舌打ちをしそうになってそれを飲み込む。この癖を止めねばと思えども、あれと居ると頻発させてしまってなかなか治らぬ。もう既に宿の者が床を述べていた。妙に二組の布団の位置が近く、それにも無性に腹が立つ。布団の位置を出来るだけ離した後、部屋の隅にあった衝立を真ん中に据えたのは少々子供染みていたがだろうか。しかし、溜飲が下がったのも事実。
櫛で洗い髪を梳かし、明日の出立の準備を整えるために荷物を解くが、然したる準備があるわけではない。なにやかやとしながら時折時計を見る。湯屋から戻ってきた頃には騒がしかった他の部屋も、もう既に休む者が多いのか静かだ。戻るまで待とうかとも思ったが、すぐにその選択は捨て、知ったことかと灯りを消した。部屋の奥側の布団に潜った。勝手にするがいい。心配損だと腹を立てながら目を瞑る。恨みがましい言葉でも口に出そうかと思ったが、そう思う前に眠りに引き込まれた。
畳を引掻くような音がした。それで目が覚めた。部屋の中は暗いが、鳥の子紙の向こうには月の光が明るい。
何の音だ。
音は部屋の中からする。すぐ隣。
衝立の向こう、辰馬の布団がある方だ。
戻ってきたのだろうか。何時だろうと枕元に置いた時計に手を伸ばそうとしたが、寸でのところで止めた。まさかと思うが、陸奥は闇に目を慣らしながら天井を見た。此の手の宿場町の遊興場といえば地回りのやくざが仕切る賭場か私娼窟である。だが此の町の規模は少々小さく見当たらなかった。無論幕府から私娼は黙認されてはいるといえど、禁止されているから宿の飯盛女が客の相手をすることがあると聞いている。
そう、まさかだ。衝立一枚隔てたところで女を引き込んで夜の組み手をしているのではないかといぶかしんだ。が、それにしては気配がない。微かに漏れ聞こえるのはなにか掻く音。寝息、いや寝息ではない。苦しそうな、これは声か。
衝立の脚の隙間から見える向こう側をちらりと横目で覗く。万が一にも先ほどちらと浮かんだ考えの通りだったら狸寝入りでもせねばならぬ。流石に知っている人間の、それもこの先旅を同行する男のそんな場面に顔を合わせたくはない。
眩しい月明かりの為衝立の向こうは濃い陰が落ちていた。細長い隙間には辰馬が横たわっている姿しか窺えない。蒲団から畳に投げ出された辰馬の伸びた手が見える。初めは自分の目がおかしいのかとも思った。暗い部屋で月明かりしかないのでそう見えるのかと。そうではなかった。
その手は異様なほどに緊張していて、小刻みに震えていた。震えるというよりも、腕の筋肉が硬化して指先にそれが伝わっているというような。なんだ。
陸奥は半身をよじるようにゆっくりと起こしながら、自分の蒲団の端を剥がした。畳の上に手をついて衝立の向こうを覗き込む。
居たのは辰馬一人だった。
いつ戻ったかは分からぬが、上着が枕元に投げてある。風呂には入ったのか、衝立の上に濡れた手拭が引っ掛けてある。普段ならばこのあほうと吐き捨てて布団に戻るところだ。だがそうしなかったのは偏に異様だったから。
辰馬は全身がまるで硬直したように震えながら、青白い顔をしているのに汗を吹いている。秋も深まる寒い日だと言うのに、額に髪の毛が張り付いて、戦慄く口唇からは声とも息ともつかぬ音が漏れ聞こえた。何が起こっているのか一瞬判別がつかなかった。衝立を押しやるようにずらしながら枕元へと膝を滑らせる。先に見えた畳の上に投げ出されている腕に恐る恐る触れた。驚くほど冷たい。揺すりながら顔を覗き込めば、その汗は暑さの為に流されたものではではなく、これは多分冷や汗。
「辰」