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安達が原

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呼びかけたが起きない。呻くばかり。あ、う、あぁ、そんな声とも呻きともつかぬ何かが口からこぼれる。背中に、ひやりとしたものが走った。なにか病を得たか。しかし同じものを食べて同じ行程を歩いている。確かに強行軍では在るが自分よりも体力のあるこの男が病を得るとは考えにくい。それは飲みすぎ、いやあれしきでは酔うまい。こわばった指先を解すようにしたが収まらぬ。辰、辰、声を掛けながら手を握り、肩を強く揺すった。だが震えは止まらぬ。止めてくれ、冗談は。
悪い予感や考えばかりが盆提燈の灯篭のようにぐるぐると巡る。
「辰馬」
耳元で強く名を呼び、祈るような気持ちでもう一度肩を揺する。そのとき漸く四肢の硬直は収まり大きな呼吸を一つしたのが分かった。徐々に呼吸が落ち着き、冷たかった掌が微かに動く。陸奥が思わず安堵のため息を漏らしたとき、辰馬の目がうっすらと開いた。
夢現という様なとろりとした目が此方を見た。ただそれはどことなく険しく、それでいて安堵したように見えたのは錯覚だろうか。少しだけ眩しそうに目を眇め、微かに口唇を歪めた。
「なんじゃ、便所についてって欲しいがか」
愛嬌のある口調で笑う。声は掠れていたがいつもの辰馬だ。
「ほれとも夜這いかえ」
こんなときまで軽口を。
「阿呆」
溜息混じりに呟きながら、水差から湯冷しを湯呑みへ注いで手渡してやる。辰馬は差し出されたそれを片肘をついて身を起こし物も言わず飲み干した。口元を手の甲で拭い、湯飲みを陸奥に渡す。もう一杯要るかと尋ねたがいや、えぇと手で制した。
「大丈夫か」
受け取った湯呑を盆に戻しながら陸奥は尋ねた。いつも出る軽口はどこかへ消え失せ、辰馬は再び枕に頭を預け笑った。
「すまん、起こしてしもうたか」
傍にあった陸奥の手を取り軽く握り返す。陸奥は手を引っ込めようとしたが、辰馬はその手を取ったまま寝返りを打ちその手を自分の頬に当てた。何かを、確かめるように。
陸奥はちょうど辰馬の頭の重みを手の甲に受けながら、手を無碍に引っ込めるわけにも行かず、いいやとだけ言う。手の甲に当たる辰馬の冷たい頬はなかなか温まらぬ。
いつもなら。
こんなことはお前が追う尻の主にでもしてもらえとでも言うのだが、どうにも今日はそう言う気になれぬ。
少しばかり様子の違っている姿を先に感じていた所為かもしれない。ただ黙って少しばかり窮屈な姿勢に耐えた。ざわざわと風が渡っている。遠くの竹林を揺らす音がする。
「どがぁした」
暫く経ったころ、沈黙に耐え兼ね陸奥は静かに尋ねる。
「いや」
そう言う割に辰馬は手を放さぬ。流石に悪いとでも思ったのか、頬の下からは手を開放はしては呉れたが手は握られたままである。その手も、まだ冷たい。
「陸奥は、寝んがか」
手を握っている癖にそんな問いかけは無いだろう。かといって放してくれる様子は無い。辰馬の堅い掌が陸奥の手を確りと掴んでいる。此処に居ろとでも言うように。
いや、あるいは。

溺れる者が死に物狂いで掴む、藁のように。

「目が冴えた」

そう言うと辰馬はほうかと小さく言った。手を握っていない方の手を床に着き、少し身を起こす。何をするのか、そう問い掛けようとした時、辰馬のとった行動に思わず真夜中と言うのに、おいと大きな声が出そうになる。
「すまんがちくとこうしとうせ」
辰馬は頼むとだけ言う。憔悴、安堵、懇願、命令。どれでもなく、そのすべてであるような声で。
「十分、いや五分だけでえぇき」
膝の上に重みが載る。辰馬の頭の重みが、陸奥の両膝に載せられた。掠れたような弱弱しい声で、後生じゃ、ともう一度手を握られた。辰馬は陸奥が逃げないように指を絡めて、引き寄せるようにそれでも優しく掴む。
何が頼むだ、そう思わねども。
どうやったらこんな人間に鞭が打てると言うのか。五分じゃ、陸奥は己にそう言い聞かせて動かぬようにじっとした。辰馬も動かぬ。
「悪ぃ夢でも見たがか」
いんや、そう言った辰馬は笑おうとしたようだ。だが声にはなっていなかった陸奥は反射的に嘘だな、とすぐに分かる。夢か、或いは。
「じゃァ頭をどけや」
ぴしゃりと言ってやったが、普段の陽気な笑い声が静かな夜に響く。
「いやじゃ、ふともも気持ちがえぇきに」
殴ってやろうか。五分の約束を沈黙にて守ろうとしながら、陸奥は膝に感じる重みに耐えた。時間というものはただ黙っていると流れるのが遅い。

辰馬は黙っている。陸奥も黙っている。外には木枯らしが吹いている。里より一足先に秋が来たる山間の宿場街。この風は美しく色した木々の葉を揺すり落とす風。耳だけで外の風を聴きながら時間が過ぎるのを待つ。

先ほどの。

あれは戦争神経症というものだろうか。
攘夷戦争は幕府の開国で表面上では収束を迎えた。しかし、未だに各地ではゲリラ戦のような抵抗運動が続いている。辰馬が戦から帰ってきたのは一年以上も前のことだ。彼がその前にいたのは砲撃音鳴り響く戦場。
戦地から戻った者には心を患う者が多いとも聞く。廃人になったものもあるというが、以前の生活に戻れば段々とそれも薄らぐと言われている。だが印象的な事象が日常生活によって起こるとそれが引き金になり悪夢を見たり飛び起きたりすることがあるとも聞いている。
昨日、いや正確には一昨日、街道を行く道すがら我々は山賊に遭った。被害こそ無かったが辰馬は賊に対峙しその一人の指を斬りおとした。それは正当防衛であったといえるし、何を罰されるようなことではない。彼は自分の身を守る為ではなく私に襲い掛かる男を退ける為にそうしたのだから。
山賊に襲われた所為で逃げ道を誤り、街道を外れ、私は過ぎ去った恐怖と緊張で脱水症状を起こして辰馬に負ぶわれて山を越えた。昨日は野営まがいの宿で夜を明かしたのだが、昨晩は起きた様子は無かった。気が付かなかっただけかも知れぬ。が、おかしな様子はそのときは分からなかった。
気が緩んだのかもしれない。昨日の夜営紛いの夜明かしは彼が元居た場所では恐らく当たり前だったのではないだろうか。あばら家での長い夜の間、眠りの狭間で神経を研ぎ澄ませながら小さな物音を拾っていたのかも知れぬ。そして賊の襲撃で振るった剣は、記憶を揺り起こした。
だが。
温かい食事と風呂、屋根のある宿。些細な日常が戻った今日と言う日。非日常から日常へと切り替わった分起点。昨日まで張り詰めていた辰馬の緊張が解けたのかも知れぬ。そのとき漸く緩めることの出来た神経を、過去の亡霊のような記憶が無残に揺り返すように蝕んだのではないだろうか。同室に難色を示したのはその所為か。
辰馬の息が一定になり先ほどとは変わって穏やかに刻みはじめた。これも演技なのか、それとも。

知られたくなかったのだろうか、私には。
考え続けても、答えは出ない。
作品名:安達が原 作家名:クレユキ