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気付いたら新幹線に飛び乗っていた。
OZなら気にならない東京と名古屋の新幹線で２時間の距離は思っていたよりもずっと遠くて、びゅんびゅんと流れていく窓の景色を睨みつけながら、佳主馬は２時間ずっと唇を噛み締めていた。そうでもしないと、ぼろぼろと泣いてしまいそうだったから。

「落ち着いた？」
「……ん、ありがと」
差し出されたマグカップを受け取って、息を吹きかけ口を付ける。レンジで温められた牛乳に溶かしたココアはあたたかく、寒さで芯まで冷え切った身体を溶かしていくみたいだった。初めて訪れる健二の家のリビングで、佳主馬は今健二の淹れてくれたココアを息で冷ましながら飲んでいる。
部屋が暖まるのに少し時間がかかるからと言われたから、佳主馬はまだコートもマフラーもまだ外してはいない。なのに、健二は部屋に上がるなりさっさとコートを脱いでしまってシャツと薄手のセーター一枚の姿で、それが気に入らなくて、佳主馬が健二に不服を漏らせば、見たこともないような怖い顔で「部屋があったかくなるまで絶対に脱いじゃだめだからね」と言い渡された。
健二の家のリビングは閑散としている。きっちりと片付けられた、お世辞にも広いとは言えないキッチンと繋がったリビングは無駄なものなんて一つもなくて、その無駄のなさがどこか寒々しい。聖美は綺麗好きだけれど、佳主馬の家にはまだ1歳半に満たない赤ん坊がいるからリビングは何時も少し散らかっている。その自宅を見慣れているせいかもしれない。人の気配の薄い家だと佳主馬は思った。
「お兄さんは」
「うん？」
「いつもこの家に一人なの？」
ぱちり、と佳主馬のすぐとなりに座った健二が瞬く。虚を衝かれたみたいに何度か瞬きを繰り返した後、健二は少しだけ寂しそうにへにゃりと笑って、そうだよと頷いた。あの夏の日に、こんな賑やかなのは初めてで、大勢で食べるご飯がおいしかったと頭を下げたような人だから、想像は出来ていたのに、暖房を付けても寒々しさの消えない部屋で一人ご飯を食べる健二を想像したら、同情するつもりなんてまったくないのになぜか涙が出てきて、佳主馬はますます俯いた。俯いて、マグカップから外した片手を下腹部にあてる。
「ねぇ、お兄さん」
「なに、佳主馬くん」
「言わなきゃならない、ことがあるんだ」
コートの上からうすっぺらい下腹部をそっと撫でて、ねぇおばあちゃん、言ってもいいかな？と佳主馬は今は亡き曾祖母に心の中だけで問いかける。大ばあちゃんが生きていたら、なんていうだろう。道を踏み外したという自覚はあるから、きっと、笑って祝福なんてしてくれないだろうことはわかっているけど、でも、それでも、大ばあちゃんなら納得のいくまで話し合いなさいというだろうから、だから、と自分の持てる限りの勇気を奮い起して、佳主馬は顔をあげた。
すぐ隣に座る人は穏やかな顔で佳主馬に合わせた甘ったるいココアを飲んでいた。
「お兄さんに、言わなきゃならないことがあるんだ」
「うん」
「あのね、」
言わなきゃならないことはたった一つなのに、そのたった一つのことがうまく言葉に出来ずに、佳主馬は口ごもる。健二が不思議そうに首を傾げるのに、どうやって答えていいかわからなくなって、「手」とだけようやく絞り出した。
「手」
「え？」
「手、貸して」
差し出された健二の手をとって、己の薄い下腹部に押し付ける。
下腹部に押し付けた瞬間、ぎょっとして手を引こうとした健二の掌を逃がさないようしっかりと押さえつけて、佳主馬は睨みつけた。そうでもしないと泣いてしまいそうだったから、佳主馬は何事かとうろたえて顔を真っ赤にする健二をきつく見据えて、絞り出すように告げた。心臓の音が煩くて、絞り出した自分の声もよく聞こえなかった。
「ねぇ、お兄さん、僕の家族になってよ」
「佳主馬くん？」
「僕と、僕らの子の、家族になってよ」
「……ボクらの子？」
佳主馬の発した言葉の意味を、すぐさま呑み込めなかったのか、きょとん、と色彩の薄い健二の瞳が揺れる。
「妊娠してるんだ。妊娠６ヶ月くらい、もう、堕胎は無理」
「……え」
「お兄さんと、僕の子だよ。身に覚えはあるでしょう？」
あの夏の、納戸での一夜が佳主馬の望んだだけの幻でないのなら、健二にだって身に覚えはあるはずだ。蒸し暑くて、息苦しいような夜だった。汗でべとべとになって、それでも離れがたくてずっとくっついていたいと思ったのを佳主馬ははっきりと覚えている。
おそらく言葉の意味を理解したのであろう、ぽかんと口を開けた健二の顔色が佳主馬からわかるほどにはっきりと白くなって、瞳が困惑に揺れた。拒絶されるかな、とどこか冷めたところで佳主馬は思う。否定されたら、拒絶されたらどうしようと新幹線の中でも妊娠が分かってからでも散々悩んだのに、言いだしてしまえば不思議ともうそんなことはどうでもよかった。
拒絶されたらどうしようかな、とはちょっとは思ったけれど。
「佳主馬くん」
「なに」
「それ、いつ気付いたの」
「妊娠したの？」
「そう」
「１ヶ月くらい前、かな？」
「妊娠してるのに気付いてるのになんであんな冷たいところに座り込んでるの！！！」
肩を揺すられながら悲鳴混じりに健二に怒鳴られて、佳主馬はきょとんと目を瞬かせた。予想外の反応にどう答えていいのかわからなくなっている佳主馬をよそに、健二は一人あわあわとしている。うろたえる様子が彼がOZで使用しているアバターの様子にそっくりで、佳主馬はなんだかおかしくなって、時と場合も考えずに笑ってしまった。
「笑ってる場合じゃないでしょ、佳主馬くん！」
「いや、だって、そういう反応は、予想外で」
否定されるとか、拒絶されるとか、そういうのしか予想してなかったからと告げる声はうまく言葉にならず、ぼろりと零れた涙と嗚咽に掻き消された。一度、涙腺は決壊してしまえば涙を止めるすべがわからずに、みっともなくしゃくりあげながら、健二に縋りついて佳主馬は泣いた。妊娠が分かってから今まで一度も泣かずにいたのに、一人で耐えるのはもう限界だった。だって、健二は受け入れてくれたのだ、佳主馬と佳主馬の胎の中にいる子どもを、健二はあっさりと受け入れてしまったから、だから、もう佳主馬には一人で耐えるのは無理だった。
健二がどういう表情をしているのかは、視界が涙で滲んでわからなかったけれど、宥めるように背を叩く掌は優しかったから余計に涙が止まらずに、ずっと一人で抱え込んで我慢していたぶんまでぶちまけるように佳主馬はわんわんと子どものように泣いた。
「一人で、背負い込ませてごめんね。つらかったよね」
「ふっ、う…っ」
「だいじょうぶだから、頼りないけど、ボクもいっしょに考えるから」
かぞくになるんだから、だから、もう一人で泣かないでね。
頭の上から降ってくる健二の声は優しくて、抱きしめてくれる腕はそのひょろひょろした外見からはそぐわないほどに力強くて、佳主馬は健二の腕の中で何度も何度も頷くしかできなかった。

　*

それから１ヵ月後、佳主馬が名古屋の池沢の家から失踪すると同時に、OZでは無敗を誇ったキング・カズマはOMCはおろかOZからも忽然とその姿を消したのだった。

2010/08/30