奇跡の鐘の音
「動くな」
唇を重ねる意味は、傷を癒す他無い。サリエルは鴉の襟首を広げ、血の匂いを残す肩に恭しく口付けた。硬い皮膚に舌をそっと這わせ、力を注ぎ込むと、傷ついた鴉の肉体は本来の姿を一瞬で取り戻した。
「……っ、支部長」
「忘れるな。能力を封じられていようと、お前は天使だ。神の愛をその身に受ける天の使いだということを忘れるな」
「忘れません。……貴方は優しいですね、支部長」
「部下を大切にして何が悪い。戻ればお前にはまた制限がつくだろう」
「今、捕えれば良いだけのことでしょう?」
「力付くでか?」
「貴方になら、それが出来る。それなのに俺を助け、こうして癒しまで」
「お前の意志が強いことは私が良く知っている。忘れるな、鴉。地獄に神の声は届かない。天使が神の愛を見失えば悪魔に堕ちる」
「神の声を、貴方は聞いたことがありますか?」
「愚問だ。鴉」
「……貴方ならそう答えるでしょうね」
鴉の下手な微笑みを、サリエルは一瞥した。
「他の天使に聞いても、同じ答えを出すだろう。……鴉、あの悪魔を人間にすることで、必ずしも彼を幸せに出来るとは限らない」
「それでも俺は行きますよ」
鴉の意志は、止まることを許さない。それ以上の問答は必要無いと、鴉は癒えた体でサリエルの私室を立ち去った。
「……人間になれば救われるのか、そんなはずはない。だが」
天使で居る限り、他者を愛し愛される幸福は得られない。天使は神の愛のみに生きる。他に気持ちを向けることなど許されない。
それを言葉にすることが出来ないまま、サリエルは煙草を咥えた。
心を静める意味で吸い始めたものだが、いつの間にか習慣化し、今では随分数も増えた。
肺に吸い込み、穏やかに吐く。胸が熱くなり、サリエルは翼を広げ、空気を貪った。
「……くだらん、感傷だな」
いつから世界は歪んだのだろう。愛を説く神に従う天使が愛に身を落とせない。それは罪を呼ばれることになる。
「お前は、一人だけ罪を……、だが……」
悔やむだけで、サリエルは何も出来ない。鴉のように、愛するものを求めて地獄の果てまで行こうとする勇気も無い。
「昔のことだ、もう、覚えてもいないのだろう」
堕天すれば暴力が心を支配し、他者を慈しむ心は失われると言う。あの白鷺が特殊であるように、他の悪魔は愛という言葉すら口にしない。