Ladybird girl
第四章
間髪をおかずにたたき落とされた手の痛みですこしだけ目が覚める。自分が半ば眠っていた――意識を手放していたことを自覚する。
しかしイギリスはもはや余計な反応を示さずに、冷えるだろうから早く中へ、ともう一度頷いてから踵を返した。すると静かな夜が再び二人の周りに降りて、それこそ魔法にかけられたみたいにアメリカはおとなしく彼女の後ろについていった。
同じ空間の、ひどく近しい場所にいてさえお互いに触れることのまったくなかったふたりだのにアメリカはその魔法に驚けなかった。趣味の庭仕事やお針子、自宅住まいの水仕事(実際、フランスの手のひらなどは驚くほど固く指も節くれだっている)でかさついているはずの指先はまるで赤ん坊のように柔らかかったから、確かに魔法には違いなかったのだが。
(ああ、でも、あのときは)
もちろん傷はとうに痛まなくなっていたから思い出すのも難しいけれど、もしかすると一度は触れた記憶が肌にこびりついているのだろうか。もっともこれはあまり愉快な想像ではなくて、どこかについているかもしれない印を意識せずにはいられなくなる類のものである。
ともかく、前を見なくてもぶつからない程度には慣れていた。イギリスの先導にも怪しいところがあればすぐに気づけるだろうと楽観的に従って、本当に気がついたときにはバスルームでシャワーを浴びていた。熱いシャワーの下で濡れた頭をぶんぶんと振れば、水滴が曇り鏡に飛び散っていくつもの像を結ぶ。その鏡に向けて小さく唇を尖らせ、さらにこつんと額を押し付けてみる。
「むー……」
(意味不明だ、あたし)
入力に対しての出力が混乱していることはとっくに自覚済みで、けれどどの入力が出力を引き起こしたのかもわからないままだから、ただ苛々を持て余すことしかできないのだった。言うまでもなくすべての元凶はイギリスなのだから、間違ってはいないはずと信じているわりに、ここへ来てすら言い出せない自分にもあきれてしまう。
イギリスの思うことなんて、考えるだけ無駄だとアメリカには分かっている。
だってふたり、共有しているものなんて殆どない。なのにイギリスはまるでアメリカのことを分かっているみたいな素振りを見せたがって、言葉足らずに行動からはじめてしまうからこちらから反発せざるを得なくて、結局最後にはののしりあいになってしまうのだから。
はじめから意識から追い出してしまっていて、だからといって知らない場所へぶつかることを恐れるのも自分らしくないことには違いないことも分かっている。
だってあたしは自分の人生の主人公だもの。陳腐ではあるけれど、励まされることには違いのない小さな言葉。言い聞かせることでまっすぐ歩くことができればそれでいいと思う。
ここから出たら言ってしまおう――ううん、言わなきゃ。
決意だけを済ませて、プラスチックのちゃちな引き戸を勢いよく開ける。
と。
「なんだ、髪も洗ったのか……ならちょうどよかった。乾かしもしないうちからベッドに倒れこまないでよ?」
どこか柔らかな声とともにむき出しだったままの頭から肩にかけてバスタオルがかけられる。そのままイギリスは、あろうことかアメリカの髪を丁寧な手つきで拭きはじめた。しばらく拭いてはタオルを微調整させているのは、常に乾いた箇所が中心にくるように気を遣っているものらしい。やがて美容室のシャンプーみたいに耳の中までタオルに蹂躙されたころになって、アメリカはようやく自分が置かれている状況を把握した。
(ええと、なに、言おうとしてたんだっけ?)
アメリカとあたまひとつぶんもずれている身長をカバーするためにせいいっぱい腕が伸ばされている。そのせいで彼女のネグリジェのやたら膨らんだ袖が重力にしたがって肘のあたりまで落ちて、なにとは言わないけれど細さが強調されていた。のぞきこもうとすれば、どんな素材かアメリカにはわからないふわふわしたギャザーの向こうに肌がたやすく見えてしまいそうだった。
やがて彼女が何か思いつく前に、
「……っくしょん!!!」
「わっ?!お前、服は!!!」
「だってイギリスが離さないから……くしゅんっ」
「ばか、腕を押さえつけたわけじゃあるまいし……ほら、早く、下着とあとは……ううう、先にパジャマのずぼん!あたしはもう行くから、さっさと着ちゃいなさい、ばかっ」
なにやら急に慌てはじめたイギリスがバスタオルをほうり出すようにして手を放すと、水分を吸ったそれはあっけなく地面に落ちてしまう。脱衣スペースからほとんど駆け出すようにして消えた後ろ姿の、ツインテールの先が揺らめくのを最後まで追ってしまうと、することもなくなってもう一度くしゃみが弾けて自分でも慌てて着こみはじめた。とはいえ最後まで、やはり何を言おうとしていたのかを思い出すでもなく、アメリカはひとりで言われたとおりに髪を乾かした。それからひとりで客間に上がり、きれいにベッドメイクされた上に畳まれた制服を見つけ、わざと崩すようにして払いのけ、幸いなことにイギリスのにおいはしない中に潜り込み、一目散に眠りを貪りはじめた。
*
「……はっ!」
窓の外から聞こえるのはやたらと楽しげな小鳥たちのさえずり。もうすぐ外には彼らの食べるものがなくなるっていうのに、何がそんなに楽しいのだろう。必要以上に大きい動きで、これも昨日いつの間にかベッドサイドに置かれていた携帯電話を取り上げたアメリカは、分厚いカーテンを突き抜けてまで目を刺そうとする光に抗おうと毛布を頭からかぶり、窓側に背中を向けて上半身を起こした。
くっきりしっかり黒い背景に白い文字で表示された時間は9時23分。
つまり、疑いようもなく朝だった。
「はぅああああああ?!!」
アメリカは毛布を剥ぐやいなや走り出しながらなんとか部屋履きを引っかけた。普段はなんとかベッドを元の姿に戻そうといちおう努力だけはしてみるのだけれど今はそれも出来ない。そのまま部屋から駆け出そうとしたものの、携帯電話の下にあった制服に気付いて急ブレーキがかかった。意識的にかけたのではなくかかった、かからざるを得なかったのだ。次の瞬間には寝間着が脱ぎ散らかされ、カッターシャツ、スカート、ベスト、襟を取り出す、なぜここにあるのかもはや疑問にも思わなくなっている新品のハイソックスを履いて、叫びながら今度こそドアを蹴破った。転げ落ちるようにして階段を降りる。
「イギリス!イギリス?!なんで起こしてくれなかったのさ!さすがにあたしもこんな、こんな遅刻は気にするよ!午前中まるまるさぼるわけにもいかないしそりゃあたしはさぼったってかまわないけどうううそれともまさか先にああもうイギリス!バカ!バカ!いつも君はバカばっかり言うけど知ってるバカって言うほうがバカなんだよ!死んじゃ……え?」
視線の先、お目当ての少女は悠然と紅茶のカップとソーサーを音ひとつ立てないでテーブルに置いた。怪訝そうに伏せられていた睫毛を持ち上げてアメリカを見やった目は何故かすこしだけ濡れている。
「死なないから。……朝から何をばかみたいに騒いでいるんだ」
「何って、イギリス、君学校は」
「学校?」
「ほら!」
作品名:Ladybird girl 作家名:しもてぃ