独善家達の晩餐
それを視界に収めた臨也は、無言で一歩後ずさった。それきり、何の反応も示さない。口調の割りには地味な反応に、セルティは少しがっかりした。すぐに影を霧散させる。
しかし、セルティは一つ失念していた。セルティは日本でゴキブリを見たことが無かったので、ゴキブリに遭遇した人間を見たことも無かった。
固まったまま動かない臨也に、セルティが不安を抱き始めた頃、玄関が開く音がした。
「ただいまー」
新羅が、買い物袋を提げて帰宅した。硬直していた臨也は、唐突に玄関に走った。荒い足音を聞きながら、セルティは呆然とキッチンに取り残された。
一方、臨也はあっという間に距離を詰めると、新羅の襟首を引っ掴む。
「え、何!?」
帰宅早々掴みかかられた新羅が、驚いて買い物袋を取り落とした。そんな新羅を置いてけぼりに、臨也が喚く。
「何あの女! 信じられない!」
臨也が、勢い込んで背後を指差した。臨也に遅れて玄関に辿り着いたセルティが、びくりと肩を竦ませた。セルティの姿を見とめ、臨也に襟首を掴まれたまま新羅が目を丸くした。
「あれ!? セルティ、今日は遅くなるんじゃなかったの?」
『先方の都合で、早く終わったんだ』
セルティが困惑しながらPDAに打ち込む。
「そうなんだ。それで、これは何?」
臨也は、新羅の襟首を掴んだまま、がっくりと首を垂れていた。ぼそぼそと呪詛の言葉を呟いている。
「本当に最悪だ……お前の女の趣味はおかしいと思ってたけど、やっぱりどうかしてる……」
「ちょっと、それ以上セルティに失礼なこと言ったら解剖するよ? ほら、しっかりして」
臨也の肩に手をかけた新羅だったが、臨也の首を見て目を瞠った。
「うわ、蕁麻疹。本当にどうしたの?」
困惑する新羅に、セルティがPDAを掲げた。
『いや、私が悪かったんだ……多分』
「?」
新羅が、首を傾げて話を促す。
『ちょっとした悪戯のつもりだったんだが……影で作ってみたんだ』
「何を?」
『ゴキブリを』
一瞬、沈黙が落ちた。
「え? それだけ?」
新羅が拍子抜けして呟いた。
『ちょっと壁を走らせてみたりして』
セルティが、指先でジェスチャーして見せた。
「ていうか君、そんなに苦手だったの?」
不貞腐れて首を擦っている臨也に、新羅が尋ねる。臨也はぱっと顔を上げると、再び新羅に食ってかかった。
「だって、京都の山奥にいるような奴だったんだよ! 心臓が止まるかと思った!」
臨也のあまりの剣幕に、新羅が後ずさる。
セルティは、もう一つ失念していた。日本の一般家庭におけるゴキブリの大きさを知らなかったのだ。
『あんなに嫌がるとは思わなかったんだ』
セルティの弁解に、新羅が苦笑した。
「まぁ、人類とゴキブリの間には、マリアナ海溝より深い溝があるんだよ」
新羅は臨也と似たようなことを口にする。途端、キッチンに立っていた臨也が呻いた。
「頼むから、今その名前を出すな。思い出すから……」
臨也は深く嘆息すると、野菜の皮剥きに専念する。調理を引き受けたことを、臨也は内心後悔していた。時折キッチンの隅に視線を走らせるのを止められない。
しばらくすると、ふらりとセルティが臨也の傍に立った。包丁を持つ臨也の手元を、興味深げに見つめている。気配に気付いた臨也が、物憂げに振り返った。
「何? もう一回やったら潰すからね。社会的に」
不機嫌さを隠さない臨也に、セルティは慌てて手を振った。PDAに文字を打ち込む。
『料理は得意なのか?』
「そりゃ、男の一人暮らしだからね。それなりには出来るよ」
臨也が素っ気無く答える。セルティは少し迷った末、思い切ってPDAを差し出した。
『良かったら、少し見ててもいいだろうか』
「……興味あるの? 食べれないのに?」
臨也が怪訝な顔で尋ねると、セルティはもじもじと身をくねらせた。臨也が勘付いて、げんなりした表情を見せる。
「あー、はいはい。作ってあげるのね。ごちそうさま」
臨也はそう言うと、野菜を切る作業に戻る。
「で、料理苦手なの?」
じゃがいもを両断しながら、臨也が尋ねる。
『味付けが上手く行かないんだ』
「あー、味見出来ないもんね」
臨也が呆れたように笑う。セルティは、しゅんと項垂れた。
「ちゃんとレシピ通りにやってる?」
『そのつもりなんだが、よく調味料を間違えるんだ』
セルティの文面を見て、臨也が薄笑いを浮かべた。じゃがいもを綺麗に等分し、にんじんを手元に引き寄せる。
「そりゃ、料理以前の問題だと思うよ。……ていうかさぁ、君、甘いとか辛いとかの概念あるの?」
『残念ながら』
セルティはますます項垂れた。とはいえ、頭が無いので、真っ黒な首の断面を晒すばかりだ。臨也は、その黒い色から視線を逸らした。
「だったら……調味料の入れ物をもう少し分かり易くするとか。これ、砂糖と塩が分かりにくいよ」
臨也が調味料置き場を指差した。
『なるほど』
セルティが頷く。
「ていうか、カレーとかシチューだったら、味付け必要無いからいいんじゃない? ま、食い扶持一人だと厳しいけどさ」
今日のメニューがカレーに落ち着いたのも、一人分は作りにくいメニューだからだ。臨也はにんじんを切り終え、たまねぎを引き寄せる。そこでふと、臨也はセルティに視線を向けた。セルティが首を傾げる。
「たまねぎ切ってよ」
臨也は体をずらし、まな板の前にスペースを空ける。セルティは、差し出された包丁を恐る恐る受け取った。見るからに不慣れな様子に、臨也は内心嘆息した。
セルティが不器用にたまねぎを切るのを、臨也が鼻で笑った。臨也が何か言う前に、背後から伺っていた新羅が、膝裏に蹴りを入れて黙らせた。二人の間に無言の攻防が起こったが、たまねぎに集中していたセルティに、それらは全て聞こえなかった。
夕食の時間は、誰にも平等に訪れる。いつかの離別も知らん顔で、表面上の穏やかさを伴って。
「ようし、出来たぞー! 者供、出会えー!」
「何その掛け声」
正臣の奇妙な音声に、呆れながらも帝人が立ち上がる。壁に立てかけられていた折りたたみ式のテーブルを組み立て、即席の食卓を用意した。そこへ、正臣が器用に三皿一気に運んでくる。一皿だけ異様に大盛りの皿を差し出され、帝人が目を丸くした。
「ちょっと正臣、こんなに食べられないよ」
「いいからいいから。食えなかったら食ってやるから、とにかく食え」
正臣が押し付けるので、帝人は渋々受け取る。
「おっと、スプーンスプーン」
正臣が、キッチンに逆戻りした。
「すごいですね……」
帝人の皿を見て、杏里が呟いた。
「ね。まぁ、がんばってみるよ」
帝人が苦笑する。杏里は軽く頷いた。
「そうですね。たくさん食べたほうがいいと思います」
そこへ、ペットボトルにコップ、スプーンを持った正臣が戻ってきた。スプーンを一本ずつ、それぞれの皿に添える。その間に、杏里がコップにお茶を注いだ。
「いやぁ、いいねぇ。皆でおうちご飯」
正臣がしみじみと呟く。ペットボトルを斜めに支えながら、杏里がぽつりと呟いた。
「なんだか家族みたい……」