憧憬に煌く 赤の 赤
動いたのは、気まぐれからだ。
アジアの片隅で病床についた女のささやかな望み。
女の境遇に同情はしない。
自らの選択の先にあった結果だから。
だが、女のそれくらいの望みなら、叶えても良いと思った。
この国の生活が全てある市場。
大通りには活気が、わき道には貧困が。
女と出会った路地のあたり。
明らかにこの国の人間ではないあの姿は、容易に見つかった。
探せば、簡単に見つかる場所にあいつはいた。
この国に来て数ヶ月。
なにも捉えず、なにも興味を持たず。
結果、欠片も気づきはしなかった。
いや、忘れていた。
その存在を。過去の全てを。
オレがそうだったのだから、あいつが覚えていない可能性もある。
年をとれば、見てくれも変わる。
だが、気づかないのならそれで良い。
ただ、女の所在を知らせてこのままこの国を去ればいい。
同郷の死にかけた人間がいると知れば、あいつは放ってはおかないだろう。
そう、考えは決まっている。
なのに、あいつの視界に入る一歩が重くて遠い。
馬鹿らしい。
命がかかった距離でも、躊躇ったことはない。
躊躇う理由にはならない。
馬鹿らしい。
一歩、踏み出す。
気づく可能性の方が圧倒的に低い。
けれど、一泊後に。
驚愕に見開かれた瞳。
人ごみの中、あいつは間違いなくこの姿を捉えた。
市場で、ただ周囲を見回しながらあいつは歩いていただけだった。
その視線が、オレの前を一瞬通り過ぎて。
その刹那、驚愕に瞳は見開かれた。
まるで、昼間に亡霊を見たように。
いや、あいつにしてみればオレは確かに亡霊だ。
忌まわしい過去からあふれ出た悪夢に違いない。
そう思うと、無意識に唇が歪んだ。
オレは、なければいい過去だ。
自らが踏みにじられていた過去だ。
あの時、あいつに手向けは、数発の弾丸。
殺されかけた過去など、抹消されて当たり前だ。
忌まれて当然だ。
どんな馬鹿でもそうする。
なら、それを利用すればいい。
唇に笑みを履いたまま、ゆっくりと踵を返す。
係わり合いになることは望まないだろうが、きっと放っておくことはできない。
人間は自分の安全を確保するための僅かな危険なら、近づける。
きっとあいつはオレの追尾する。
あの女の塒にあいつをおびき出せば、女の噂ぐらい拾い上げるだろう。
そうすればあの女を見つけ、見取るだろう。
だからオレは、このままここを去ればいい。
「まっ、・・・刃霧ッ!」
けれど、あいつの声に一瞬思考を止められた。
ついで、腕をとられる。
「あぁ・・・。刃霧、刃霧だ・・・」
僅かに息を乱して顔を覗きこんできた、間抜け面。
喉元に爪を宛がわれたのことがある相手に晒すものではない。
なのに、こいつは・・・。
どこまでいっても、馬鹿なのか。
「今まで、」
「先生!」
高い、女の声があいつの後ろから飛んできた。
あの時、あいつと一緒に市場を歩いていた娘が、不審な面持ちでこちらに向かって駆けて来る。
だがそれは、この国の人間ではない、うらぶれた不信な男に対する反応としてはまっとうなものだ。
この十年、こいつは何の進歩もなく。
愚鈍なままなのか。
「先生、この人誰ですか」
滑らかなクイーンズイングリッシュが発せられる。
娘の育ちのよさが伺えた。
「あ、うん。えぇと・・・友達で。刃霧っていうんだけど」
娘が腕を掴むのを、あいつは咎めなかった。
いたって自然なその行動。
娘の腕には、赤い輪が連ねられている。
この国の人間独特の切れ長の眼。
それが「友達」と紹介された男に対して、不信感と敵意を隠すことなく、こちらを睨みつけてくる。
それが普通の反応だ。
「刃霧・・・だよね?」
なのに、こいつのこの反応の仕方は。
警戒心とか猜疑心とか、生きていくのに必要なものが欠けたままだ。
いや、あの頃に比べて、さらにそういったものが乏しくなっている。
「・・・もう『刃霧』じゃない」
溜息と共にそう吐き出せば、あいつがジッと左手を凝視してくるのがわかった。
どういう勘違いをしているのかが如実に伺えたが、訂正はしなかった。
色々聞かれると、鬱陶しい。
それに、正確に言えばもう『刃霧要』ではない。
「ええと、じゃぁなんて・・・。ううん、いや、うん。刃霧のままでいいよね。刃霧は今まで何を?」
なにかを一人納得して。
曇りのない笑みを浮かべてきた。
「聞いたら、耳が腐る」
一瞬、あいつの表情が強張った。
その腕を掴んでいた娘にもそれは伝わったのだろう。
濃厚な敵意が瞳に挙がる。
「お前に用がある。だから消えはしない」
その女を置いてから近くの寺院に来いと言うと、あいつはそれで気づいたかのように、娘を振り返った。
そして娘を視界に入れながら、ぎこちなく頷づいた。
作品名:憧憬に煌く 赤の 赤 作家名:綴鈴