お大事に
「面倒なこと頼んじゃって悪いけど、お願い。あと、できたら先輩の様子、あとで教えてくれると嬉しいんだけど」
なんとなく、先輩は私じゃなくても女の子が扉を叩いた場合、ドア越しに用件を聞いて、そこに置いとけ、とか言って絶対に顔を見せてくれない予感があった。同性の真田先輩でも別の意味で面倒がって開けてくれないかも、とも思ったけど、でも、順平ならちょっとだけ開けて直接に受け取ってくれるんじゃないかって気がした。
もし順平に断られたら、アイギスに頼んでみようかな、なんて考えてたけど(あの鍵開けスキルで先輩の部屋に入って「おかゆであります」って渡してくれそうだから)、順平は突然きりりとした顔つきになって、
「おっし、任せろ! なんならおまえの代わりにおかゆふーふーして「はい、あーん」なんつって食べさせるとこまでやってきてやっから!」
って、実に頼もしく引き受けてくれた。
「よかった! 順平、ありがとう」
用意していたトレーに土鍋とお茶碗とれんげを乗せて、スポーツドリンクのペットボトルとビタミン剤の入ったレジ袋と一緒に順平に渡すと、
「うし、行くぜ俺。やるぜ俺! んじゃ、一架っちもちゃんと飯食って、今日はゆっくり休めよ。おまえもまだ風邪っぴきだろ? 明日荒垣さんが全快してんのにおまえが悪化して寝込んでたりしたら、あのひとマジで怒っからなー」
って言い残して、気合いに満ち満ちつつもおかゆを落とさないように慎重にトレーを捧げ持ってキッチンを出て行った。
うん。ありがとね、順平。
さてと……。
あんまり食欲ないけど、食べなきゃ治りも遅くなりそうだし、簡単におうどんでも煮ようかな。
私は雪平鍋をコンロにかけて、素うどんを作ることにした。
やっと寝付いたかと思ったら、伊織に叩き起こされた。
うるせえ上にしつこいもんだから、我ながら据わった目のまま少しだけドアを開けてみっと、うおっと、とビビりながらも、
「あー、マジしんどそうっスね……。とりあえず、コレ、一架っちから荒垣さんにって」
と、土鍋の乗った盆とペットボトルの大瓶が入った袋を強引に持たされた。
「羽鳥から? ……なんだ」
「見たまんまっすよ。おかゆです、お、か、ゆ!」
「…………」
んな、ハナイキ荒く言わなくてもわかるっつうの……。
「いやあ、荒垣さんにも見せたかったっスよ……おかゆ作ってる一架っちのあの後ろ姿! あのほっそい足首軽く交叉させちゃって、爪先とんとんしながらハナウタハナずさんじゃってるんスよ。もー、だーい好きな彼氏にごはん作っちゃってる女の子そのものっスよ? うっかりおれっちまで萌えたッスよ。つーことで、冷めないうちに食ってやってくださいよコレ!」
「……お? おう」
「あ、味は保証するっス。俺、味見頼まれてちっとだけ食わせてもらったんスけど、すんげーいいカンジでしたから。これ食ったら、マジであいつに惚れるっスよ」
「ああ?」
「んで、食ったら薬も飲むの忘れないでくださいねー。なんなら、不肖ワタクシ伊織順平が、僭越ながら一架っちの代わりにおかゆをふーふーして荒垣さんに食べさせるお役目も……」
「馬鹿か。間に合ってる」
「あっはっはは! んなマジで嫌そうな顔しないでくださいよ。ジョーダンですって。……一架が自分で来たんじゃ、荒垣さんドア開けてくんねーだろうからって、俺がお届け役を頼まれただけっすよ」
なんでだか後半を内緒話モードでそう言って、伊織はやたらとにっこにこしながら「そんじゃ! お大事にー」なんてふざけた敬礼を寄越してぶらぶらとラウンジに戻って行った。
「…………はあ」
半端ねぇ疲労感にげんなりしつつ、俺はドアを閉めて渡されたもんを一度全部机の上に置いた。
おろしたてのきれいな布巾が蓋にかけてある。保温のためと、蓋を取るときの鍋つかみ代わりにするためだろう。気が利いてるっつーよりは……意外と古風なことすんな、あいつ、って思った。
食欲なんざ、腹ん中のどこを探してもありゃしねえ。寝入り端を叩き起こされたんだ、当然だ。
……まあ、味見くらいはしておくか。
仕方ねえ、と嘆息して蓋を開け、れんげで茶碗に少しだけよそって、それを持ってベッドのへりに腰掛けた。
何も変わったことも凝ったこともしてねぇ、普通の白粥だった。
ふぅん……これ、ちゃんと生米から煮たやつじゃねぇか。特別なことは何もしてねぇが、どこにも手抜きがなくて、丁寧に手間暇かけて弱火でじっくり煮たってんなら……その間、鍋につきっきりだったってことか?
馬鹿かあいつは。
……マジで馬鹿か!
あいつだってまだ風邪ひいてんだろうが! ハナウタ混じりに粥なんか煮てねぇで、とっとと自分の部屋戻って寝てろってんだ!
眉間にしわが寄ってるのが自分でもわかる。喉からは嗄れた唸り声が漏れた。
羽鳥が女じゃなかったら、一発ドツくかウメボシの刑に処してるとこだ。
やり場のない怒りを抱えながら粥をすくって、軽く吹いてから口に運ぶ。とろりとした食感、うっすらとした塩味が米の甘さを引き出していて、思わず眉間から力が抜けた。
「…………」
もう一口食ってみる。
……こいつは…………。
――これ食ったら、マジであいつに惚れるっスよ
なんて言いやがった伊織の声が耳の奥で蘇って、ぎりりと歯軋りが漏れた。
これを、伊織にも、食わせたってのか……。
味見とはいえ、あいつにも食わせたってのかよ……くそっ。
二口でなくなった茶碗に、今度はちゃんと一人前の量を盛って来た。
食えば食うほど、体が熱くなってきた。
熱いもんを食ってんだから当たり前っちゃ当たり前だが、なんで胸のあたりがこんなに苦しくなりやがるんだ。苦しいのに、なんだって俺はそれを嬉しいなんて感じてやがんだ?
わからねぇ。全っ然わかんねぇよ!
くっそ……んなもん、わかってたまっか……!
俺はやけになって、ひたすらに食って食って食いまくった。冷めねえうちにと、とにかく土鍋が空になるまで食うのをやめなかった。やめられ、なかった。
俺には親がいねえ。だから当然、風邪ひきこんで寝込んでたって、よほどにひどくなけりゃあわざわざ粥なんて作ってくれるはずもなくて、作ってくれたとしても冷や飯を水にぶちこんで適当に煮ただけっつーもんだったから、見た目は粥っぽくても実際はあんまし消化しやすいもんでもなくて、味もなくて、出来損ないの糊でも食ってるみてぇな気しかしなかった。
羽鳥の作った粥からは、そんな俺が知るはずのない、あったかくて、優しい味がした。
ガキの頃のアキや美紀にも食わせてやりてぇと思うような、そんな味がした。
食い終わって、食い終わっちまったことが寂しくて、そんな気分にさせられたことに、俺はちくしょうと呻いて前髪ごと額を押さえて項垂れるしかなかった。
羽鳥一架。
……なんてことしてくれやがるんだ、おめえは。
なんてことをしてくれやがったんだ、ちくしょう……!
とんでもねぇ敗北感に苛まれながら、俺はスポーツドリンクでビタミン剤を腹に流し込むと、明かりを消してベッドに潜り込んで上掛けを頭までひっかぶった。
知るか。
もう、今日は何も考えねぇで寝てやる。