縁の糸
しかしながら、老女にはそんなライドウの表情が、努めて顔に出さないようにしながらもそうなんです酷い誤解ですと悄気た色が滲み出ているものに見えたらしい。しきりと慰めてくれたのはいいのだが、その際に、
「あの刑事さん、こないだほっそりした美人の人妻に岡惚れしてね、熱心に追い掛け回してたんだけど、無粋が過ぎて嫌われちゃったのさ。その上、女あしらいの巧い鳴海さんが……ああこの先の銀閣楼で探偵をやってるひとなんだけどね、これがまた結構な伊達男でねえ……その鳴海さんが美味しいとこ取りでその人妻をしつこい刑事さんから庇ってやって仲よくなっちゃったもんだから、鳶に油揚げで逆恨んでるんだよ。まったく、男らしくないねぇ」
などと語ったので、その誤解の激しさに『……なるほど、特殊な思考能力とはこれのことか』と納得したライドウだった。
不名誉な誤解をされている風間を気の毒に思う気持ちも少しはあるが、ライドウにはこの老女の思いこみを訂正して誤解を解く自信がなかったし、その意欲も湧いてはこなかった。ゴウトの忠告どおり、ここはおとなしく頷いてやり過ごすのが最良の方法だろう。
基本的に世話焼きでひとの好い老女である。悪気がないのもわかるので、そうだったんですかとばかりに無言で頷いていると、
「ところでお兄ちゃん、これからどこへ行くんだい? おばちゃんの長話に付き合わせちゃったけど、何か用事があるんなら時間は大丈夫なの?」
と訊かれ、うっかりそれにまで頷いてしまった。
機械的に頷いていたのがばれるのはまずい。ライドウは咄嗟に、
「大丈夫です。……行き先は、すぐそこなので」
と言い添えた。頷いたのは大丈夫ですの一言にかかる仕草だと見せかけたそれに、老女は不審を抱くことなく、
「そうかい? ならいいんだけどさ。もし約束があるんだったら、おばちゃんが相手に一言謝ってあげるよ。本当に大丈夫なのかい?」
と念押ししてきた。遠慮はいらないんだよとその目が言っている。
すぐそこだと言ったのを、心配をかけまいとしての方便だと思われているらしい。そう察して、ライドウはもう一度大丈夫ですと頷いた。
「鳴海探偵社は、すぐそこだと仰いましたね」
「ああ、そうだよ。あれま、あんた、鳴海さんに用があって来たのかい!」
目を丸くする老女に、ライドウは丁寧に頭を下げた。
「今日から、探偵社に見習いとしてお世話になる者です。……葛葉ライドウと申します」
「あれまぁぁぁあ! あの鳴海さんのとこに、こんな礼儀正しくて真面目そうないい子がねぇええ!」
驚嘆した老女はこれまた全く悪気なしに『あの家賃はいつも滞納どこでもツケ放題でお金がないのに着道楽で新しもの好きで女好きで遊び好きで滅多にまともに仕事をしない鳴海さんが助手を雇うなんて、どうやってお給金を都合する気なんだろねえ』と正直に思ったことを全て口に出し、返答できずに沈黙を守ったライドウの足を尻尾でひとつはたいたゴウトが、
「どうやら……なかなかに癖のある男のようだな。おまえの身元預かり人は」
と呆れ混じりに面白がる口調で評した。
ライドウはゴウトにだけ聞こえるように、そのようだ、と呟くしかなかった。
鳴海探偵社は、ヤタガラスが用意した帝都守護を任務とする悪魔召喚師のための拠点のひとつだと聞いている。
つまり、鳴海という人物はライドウを表向き助手の肩書きで雇うことで、悪魔召喚師としての任務に従事した行動に『探偵助手の仕事をしている』という偽装効果を与えると同時に、適宜助言を与えるなどして帝都に不慣れなライドウに協力するために、探偵社を構えて待機していた人間だということだ。
ライドウが未成年であったため身元預かり人という立場にもなっているが、決して親代わりを務める人物ではない。飽くまでも、上司であり、協力者でもある相手なのだ。
彼に対する評は風間刑事と老女のふたりから少し聞けた程度なので、『対外的にはそういった印象を持たれているひとらしい』としか認識ができない。そういった、の一言にまとめた中に入っているものは、女性に好意的かつ積極的であること、身なりに気を使う反面金銭管理にはあまり熱心ではないこと、探偵業にもあまり熱心ではなく、しかしながら一度依頼を引き受ければ国家権力に逆らうことにも抵抗のない一面があるらしいこと、である。
筑土町で最も高い建物である銀閣楼は、瀟洒なビルヂングだった。軽子川商店街に面していて、神代坂へ出られる路地もあり、大通り沿いではないが依頼人が道に迷ったり入るのを躊躇ったりせずに済む結構な立地条件だ。川沿いなので風が冷たいが、夏は幾分涼しいだろうと思われる。
扉をくぐり、管理人に挨拶をしてから階段を上り始めたライドウとゴウトだったが、二階に差し掛かったところで上階から『その呼びかたはよしてって言ってるでしょう、もう! それじゃあお願いした件、よろしくね!』と、やや憤然としつつも慌てているのがわかる女性の声が響いてきた。声だけでなく、足音も焦燥を露わにしていて忙しない。
この階段の幅は、人ふたりが遠慮しあってすれ違える程度のものだ。ぶつかるのも避けたいが、急いでいるらしいご婦人の邪魔になるのも悪いと思ったライドウは、二階で少し階段から離れ、声の主を先に通すことにした。ゴウトもその意図を汲んで、ライドウの足の間にちょこなんと座った。
上から駆け下りてきたのは二十歳を少し越えた年頃の若い女性で、白いスカートの裾が威勢良く翻り、階下にいたライドウには彼女の膝上あたりまでが見えてしまった。顔には出なかったが、ぎょっとした。
だが、女性のほうはライドウ以上に仰天したらしい。誰もいないと思ってスカートを蹴立てて駆け下りてきたら、薄暗い照明の中闇の塊のように佇む人間がいて、しかもそれが男だったのだ。驚いたのと、はしたないところを見られた羞恥とで足取りが乱れ、当然の結果として、彼女は次の瞬間階段を踏み外してつんのめった。
女性は悲鳴を上げるだけの余裕すらなく落ちたが、どん、がつん、と音がしてから音もなく白い帽子だけがゴウトの前に降ってきた。ちんまりと座ったまま見上げるゴウトの翠の眼に、階段の途中で片脚を深く折り、逆の足を数段下に置いた恰好で座った黒づくめの書生と、彼に抱き抱えられてへたりこんでいる白い洋装姿の女性が映っていた。
前のめりに落ちる彼女を、階段を二段飛ばしで駆け上がったライドウが正面から抱きとめ、その身体を引きつけながら体を捻って勢いを逃がし、自分が下敷きになる形で段や手摺などにぶつけることなく庇いきったのである。鈍い音は女性がライドウの胸板に顔をぶつけたときのものであり、硬い音はライドウの愛刀の鞘が階段にぶつかったときに生じたものだ。
顔の痛みと、落下の感覚が途中で振り回されるものに変わったせいで起きた眩暈とで小さく唸った女性に、ライドウはお怪我は? と低く尋ねた。
「だ……大丈夫。ごめんなさい、あたしったら、とんだご迷惑を……」