縁の糸
涙目で鼻のあたりを押さえながら顔をあげた女性は、ライドウの顔を間近に見て瞠目し、それから自分が少年の上に乗っていることを認識して飛び上がった。……としか表現できない勢いで立ち上がり、距離を取ろうとして今度は後ろのめりに転落しそうになった。
「っ、ぶ…!」
「不調法者で………加減が利かず、申し訳ありません」
「いっ、いいえ、こちらこそっ……重ね重ね失礼とご面倒を……」
一瞬で身を起こし、女性の手首を掴んで引っぱり、強く引き過ぎて再び自分の胸に相手の顔を突っこませてしまう羽目になったライドウが神妙に詫びると、さっきよりも更に涙目になった女性が恥じ入りながらも丁重に頭を下げ返した。鼻の頭が見事に赤い。
「やれやれ、そそっかしい娘だな」
そう言いながらも、ゴウトは牙で穴をあけないように帽子を咥えあげ、ひらりと手摺に飛び乗った。ライドウの視線の向きでそれに気づいた女性が、まあ、と眼を丸くし、ゴウトの口から帽子を受け取って、
「どうもありがとう。賢い猫ちゃんね」
と笑顔を見せた。
笑ったことでだいぶ自分を取り戻したらしく、女性は改めてライドウに礼と詫びを述べてから、
「あなたこそ、怪我はしていない? どこかぶつけたんじゃなくて?」
と心配そうに訊いてきた。
「いえ、特には。……お気遣いなく」
「そう? ならいいんだけど……本当にごめんなさいね。みっともないところを見せちゃった上に、二度も助けてもらって、恥ずかしいやら申し訳ないやらで穴があったら入りたい気持ちだわ」
「お気になさらず。それよりも……お急ぎのご様子でしたが」
「あ」
落ち着いたばかりの表情がみるみるうちに強張り、いけない忘れてた間に合わなかったらコトだわどうしよう! と非常にわかりやすく内心の動きが透けて見えたかと思うと、女性は乱れた髪を手櫛で一撫でし、ばふっと帽子を被り、斜め掛けの大きな革鞄と首から提げたカメラをぺたぺたと触って異常がないことを確認して、
「書生さん、猫ちゃん、本当にどうもありがとう! ゆっくりお礼とお詫びができなくて申し訳ないのだけど、あたし、行かなくっちゃ! 失礼するわ! じゃあね!」
と言い置くや否や、もの凄い勢いで階段を駆け下りて行った。
あの慌てぶりではまた脚をもつれさせて豪快に転落してしまうのでは、と案じたライドウとゴウトだが、足音は無事に一階に着き、扉の軋みと共に聞こえなくなった。
「………」
「どうした?」
「……いや。行こう」
洋装の女性はここへ来る間に何人も見たが、今の女性は同じような髪型と服装にも関わらず、随分と印象が異なって感じられた。ひらひらとした柔らかさの中に濃厚な女の気配が満ちる『着飾った女性』ではなく、お洒落に手抜きはしないが活動性も重視、色気を醸し出している暇があったら次にやるべきことを探して颯爽と歩き出す、といった歯切れのよさがあったのだ。
お淑やかだとか奥ゆかしいといった種類の女性ではないが、蓮っ葉で品がない人種とも違う。女性としての丸さや愛嬌が損なわれないままに、何か強いものが裡にある。そんな雰囲気をしていたので、帝都にはいろいろな人間がいるのだなと改めて思ったライドウだった。
三階には『鳴海探偵社』と金字で記された扉以外、表札らしきものが見当たらなかった。ひとつの階につきひとつの事務所しか入っていないのだろうか。たまたま三階だけがそうなのか。ライドウには区別がつかず、何も書かれていない扉を勝手に開けて覗いて回るほど好奇心旺盛でもなかったので、まっすぐに目的の扉の前に立ち、呼び鈴の類がなかったので叩扉をして返事を待った。
返ってきた返事は、
「はいはい、開いてるよー。開いてるけど、猫探しだの浮気調査だの押し売り各種ツケの督促カフェーと間違えてる困ったさんはお断わりだから、どれかひとつでも当て嵌まってたら回れ右してさよならよー」
である。
低すぎないのと響きが深いのと、錆びたような掠れが混じるのとで、少し甘く聞こえるという声だった。口調のせいもあって、実に不真面目でどうにも軽い。
ライドウは扉を開け、中に入って声の主を見た。
窓際に置かれた執務机で、写真の束をやる気なさげに繰っている男がひとり。ライドウの感覚では『長髪』と感じられる長さの癖のある髪に、整ってはいるがたれ目気味で人好きのする造りの顔、身体によく馴染んでいる細身に仕立てた服、と揃うと、なるほど洒落者で伊達男だと納得できた。
「失礼します。今日からこちらでお世話になります、葛葉です」
「ああ! カラスのお姉ちゃんから聞いてるよ。おまえさんが十四代目のライドウくんね。遠いところお疲れー」
やはり軽い。
カラスのお姉ちゃん、という単語がヤタガラスの使者を指すものだとわかるまでに一拍の間が開き、ライドウは無言で頭を下げた。
まあ、上がりなよ。靴のままでいいから。と言われ、出入り口と中を隔てている短い階段をおりて近づくと、男は立ち上がってにこりと笑い、
「俺がこの帝都で唯一『変わったの専門』の探偵社の所長をやってる、鳴海だ。おまえさんの身元預かり人兼上司兼相談役ってとこだが、ま、堅苦しく考えなくていいぜ。よろしくな」
と、実に自然な仕草で片手を差し出してきた。
握手を求められているのだと察するのに一拍開いたのは、鳴海の動作がなめらか過ぎてつい見守ってしまったからである。拒否する理由もないのでライドウも手を伸ばして鳴海の手を握った。
さらりと乾いて温かく、力の強い手だった。指は長く、節が高くて、てのひらは硬い。
「……こちらこそ、よろしくお願い致します」
「はいよ。でさー、そっちの黒猫がお目付け役だってぇのもカラスのお姉ちゃんから聞いてるけど、それって本当の話なのか?」
「本当です」
「ああ、そう……いいんだけどね。それにしても、その猫がさっきから俺を阿呆の子でも見るような顔つきで見てるのは、俺の気のせいかね?」
気のせいではない。が、肯定もしづらい。返答に困って黙するしかないライドウに、ゴウトは『阿呆だが鈍くはないらしいな』と言ってそっぽを向いた。どうやら、鳴海の軽薄な態度や物言いがお気に召さないようだ。
あれま、嫌われちまったよ、と肩を竦めてみせる鳴海だが、そこには不満も落胆も含まれてはいない。特に猫好きでも猫嫌いでもないのだろう。鳴海は身を屈めてゴウトを覗きこみはしたが、撫でたり抱き上げたりしようとする素振りは見せず、
「大屋さんが来たら、愛想良くにゃあんと鳴いて抱っこのおねだりでもしてくれよー。ここほんとは犬猫飼うの禁止だってのを、俺がうまく言い繕ってなんとか許可をとりつけたんだぜ? あーら可愛い猫ちゃんね、って絆されてくれりゃあ、家賃の値上げが取り消しになるかもしれねぇしさ」
などと言っている。
その言からすると、猫を飼うことで柱に傷がついたり動物特有の匂いがついたりした場合の修繕ぶんを見越して家賃の値上げを言い渡され、鳴海はそれを承知するしかなかったらしい。
ゴウトは益々嫌な顔をして『誰がするか、馬鹿馬鹿しい』とにべもなく切り捨てた。