その召喚師、純情につき……
鳴海の私室は広すぎず狭すぎず、家具も洋風で趣味のいいものが置かれているのに、事務所より簡潔かつ雑然とした印象だった。散らかってはいないが、読みさしの本が枕元に放り出されていたり、椅子の背にネクタイが一本引っかけられていたり、日捲りカレンダーが二日程捲り忘れられていたり、捲り剥がしたカレンダーの裏がメモ用紙に使われて、その内の何枚かは落書き用紙と化して戯画化された絵柄で黒猫(おそらくゴウトだ)が描かれ、そこに『ライドウが猫語を話しているんじゃない。おれさまが人間語を喋っているのさ! にゃーん』という科白が書き足されているものが書き物机に放置されている。
担いできた鳴海を寝台に下ろす。起こさないように気を使ったが、このぶんだと荷物さながらに落としても大丈夫だったかもしれないと思うほど深く寝こけていた。
太平楽な寝顔をしばし眺めた後、ライドウは黙々と鳴海から邪魔なものを剥ぎ取りにかかった。まずネクタイを解き、椅子の背に投げる。前からひっかかっていたものの隣に計ったようにひっかかった。カフスと腕時計を外して脇の小卓に本と一緒に乗せ、ベルトも留め具を外して引っこ抜く。
靴も靴下も脱がせて完了である。
独身を謳歌してふらふらしているせいか、所帯くささのない鳴海は良くも悪くも実年齢より幾らか若く見えた。まだまだ若いつもりで微妙に腹に肉がついてきたりする年頃だが、彼の体の肉は未だにすっきりと締まっている。料亭通いやあぶらっこい洋食の多い生活なのに肥らないのは、少々謎だ。
ライドウが過去を語らないように、鳴海もまた、己の過去を口にしたがらない。
自分よりも長く生きているぶん、語りたくない過去の量や重さも自分以上なのだろう、とライドウは思っている。
身を屈め、乱れて顔にかかっている茶色がかった色味の癖毛を撫で梳いてみる。男の髪だけあって、見た目ほど柔らかくはなかった。
正体不明に寝こけている相手に必要以上に手を触れるのは、よくないことだとわかっている。
わかっては、いるのだが。
(……知っていて、無防備にしているあなたがいけない)
誘っているのかと思うようなことを、何気なくするひとだ。本人にそのつもりがないのは、わかっているのだが。
ライドウは髪を梳く手をそのまま下ろし、鳴海の耳の下から首筋、乱れた襟元から覗く胸元、とゆっくり撫でた。脈は速く、肌は熱かった。酒のせいだと知っていても、てのひらの下で熱を持った皮膚越しに頚動脈がどくどくと脈打つ感触が伝わってくると、目眩にも似た感覚と共に数瞬、息が詰まった。
傍目にはわからないだろうが、ライドウの心拍と体温も急速に上昇している。それも、こんな間抜けな寝顔でさえ可愛いなどと思ってしまう、重篤な病のせいだ。
この病には、治療法がない。
「……どうか、僕のようなものに咬まれないよう、気をつけてください、鳴海さん」
あと数粍(ミリ)でくちづけができる距離で囁き、もう一度首筋を撫でて、ライドウは鳴海から手を離した。きちんと上掛けをかけ、そのまま踵を返し、灯りを消して部屋を出る。
本当にくちづけてしまいたかったが、矜持と本能と良心とがそろって『やめておくがいい』と主張していたので思い留まった。
厄介なひとに囚われてしまったものだ、と他人事のように思いながら、ライドウは事務所の戸締りをしに戻って行った。
その耳はまだ、見事に紅いままだった。
扉が閉まり、足音が遠ざかると、鳴海の目がすっと開いた。
かなり酔ってはいるが、実は自失するほどではない。
「……咬んでもよかったんだけどねえ」
呂律のあやしい口で、ふにゃふにゃとそう独り言ちる。
一回り以上年下の少年に想いを寄せられて、おいおい、と驚きはしたものの、悪い気はしていない。
おそらく、ライドウはこれまで恋などしたことがなかったのだろう。想いを表す術も、また隠す術も知らず、禁欲的に整った端正な容貌でありながら悪魔すら誑しこみそうな眼をして鳴海を見据えるのだから、恐るべき少年だ。
髪を撫で梳く手は優しく、肌を撫で下ろしていく手は激情を秘めて熱かった。
たったあれだけの接触で、触れそうで触れない唇が残していった囁きと吐息の熱で、悪魔召喚師の少年は鳴海の身の裡を見事に掻き乱してくれた。筋金入りの女好きで男なんか論外場外な鳴海に思わず一瞬、このまま食われてもいいか、などと思わせておきながら、くちづけのひとつもくれずに潔く立ち去ってしまうのだから、なかなか憎い男っぷりだ。
くっ、と笑いが込みあげてきて、鳴海は喉で笑いながらやはり回らない舌で呟いた。
「……まあ、十七だからねえ。寝ている相手にキッスもできない程度には、まだまだ初心か」
鳴海とて、昔は少年だったのだ。本気で焦がれた相手にほど、触れたくてたまらないのに怖くて触れられない。その気持ちは経験を通して知っている。
あの頃と比べれば、今の自分は悪い意味で立派にオトナだ。我ながら、随分とすれちまったもんだ、と笑うしかない。
(しっかし、三十路で面倒くさがりで金と助手使いの荒い男に血迷っちまうとは、ライドウちゃんもかなり変わった趣味だねえ)
普通、キネマや少女向けの浪漫小説などでは、ライドウが淡い恋心を抱く対象は捜索対象であり救出対象でもある大道寺伽耶嬢あたりになるものだが、現実は淡い恋心どころの話ではなく、若いが故に内圧の高い激情を孕んでいる恋情の向き先が鳴海だと来た。
一体全体、この俺のどこがいいのやら、と思わず素で不思議がってしまう鳴海である。女性にならもてる自信はあるが、超絶美形の凄腕悪魔召喚師にまでもてるとは夢にも思わなかった。しかも、それがまんざらでもないどころか、結構嬉しかったりするとは。
人生、何が起こるかわからんもんだな、としみじみ実感する。
前途ある若者が大きく道を踏み外しかけている場合、大人としては軌道修正してやるのが当たり前のことだとわかってはいる。が、どうやら自分は自覚以上に悪いオトナだったようで、一線を越える気はないがはっきりと拒絶する気もない、という最も性質の悪い立ち位置を愉しんでいる。
やれやれ、と自嘲半分に苦笑を洩らし、鳴海は熱のこもった自分の体を抱きしめるようにして寝返りを打った。
かなり酔っているのは本当だが、眠ったふりをしたのはライドウの心拍数の上がり具合から、やばいな刺激しすぎちまったかな、と思って逃げを打ったせいもある。少年の生真面目な性格からして、正体をなくした相手を好き勝手にひん剥いて本懐を遂げるような無体な真似はするまい、と読んでのことだ。尤も、下手に煽ってしまった詫び代わりに唇に食いつかれるくらいは甘受しようと思っていたが。
大道寺家に軍人が出入りしていたというライドウからの報告を受けて、鳴海も独自に情報を集めている。今日も『呑み比べで自分に勝ったらひとつだけ質問に答えてやる』と言い出した情報提供者をを見事に酔い潰して、ひとつどころかそいつの知っていることを洗いざらい吐かせて来たのだが、残念かつ期待外れなことにそいつも曖昧な噂話の類を幾つか知っている程度だったので、手間がかかった割には収穫は芳しくなかった。
作品名:その召喚師、純情につき…… 作家名:小柴小太郎