幻惑の翅
見下ろした臨也の顔は相変わらず右腕で覆われ、通った鼻梁と唇しか見えない。ふっとその唇が綻んだかと思うと。
「それはギリシャ語で言うところの原義を呼吸。通常は心、魂を表す言葉だよ。ああ、ギリシャ神話の登場人物の名前でもある。魂のシンボルは蝶……ギリシャ語で蝶のこともプシュケと言うんだ」
ぱたりと臨也の声が、途絶える。戸惑うような数秒を経て、また話し出す。
「日本語ではプシュケとも、サイケとも発音するね。心理学のサイコロジー、幻覚剤などの症状を指すサイケデリックも、大元はこの言葉に基づいている。火星と木星の間を巡る太陽系の小惑星の名前もそうだ」
ゆっくりと子供に御伽噺を聞かせるかのようなテンポで語られる、なんら含むことない臨也の声。思わず聞き入っていたことに、また驚きを感じる。
「……こんなことが聞きたかったのかい、シズちゃん」
右腕もぱたりと地に伸べると、瞬くように眼を開けた臨也の視線は夜空を惑い、潤んだ際からぽろぽろと涙が溢れていた。ため息と共にまたその眼は閉ざされる。
なんだか、息苦しいほどに胸が痛む衝動に襲われて、そっとその頬に触れると壊れ物を扱うように拭った涙がすっと指先を冷やす。
「君とこんな風に話すのも、君がそんな風に俺に触れるのも、何かの冗談みたいだ」
地べたに寝転ばせておくのもなんだと、臨也の背に手を回して起こすと、そのまま抱きしめてみる。臨也の顔が肩先に押し付けられ、じわりと滲んだぬるい感触にため息がこぼれた。
「俺が知りたかったのは多分そんなことじゃねぇんだ」
「ひどいな、聞かれた通りに俺は答えたつもりだよ?」
押し付けられているせいか、くぐもった声の非難。借りてきた猫ほどに、折原臨也が大人しく平和島静雄のひざの上に抱かれているなんて、本当に狂気の沙汰だ。
「手前がプシュケだって誰かが言ってた、セルティがそれを「愛は信じること」と囁く女神なんだとか言ってたな」
臨也は何も答えない。ただじっと身じろぎもせずにいる。
「俺は子供に笑ってた手前を見て…ただ捕まえたくなった。ただそれだけだ」
今はそうとしか答えがでない心を静雄は、胸に抱く臨也ごと持て余していた。