幸せの足音
陽が少し傾き始めた午後。
少し眠っていたらしい。
暖かく柔らかな枕と、規則正しい算盤を弾く音。
自分が今どこで何をしていたのか、ユズハはゆっくりと思考を巡らせる。
確か、カミュと別れた後……アルルゥと違う本を探して……読めない字があったので、ハクオロの所に聞きに来たはずだ。丁度ベナウィが離席しているのをいいことに、長居を決め込んだアルルゥと書斎で本を読みながら……短調な算盤の音に、眠気を誘われ……眠ってしまった。
寝息が聞こえる。
どうやらアルルゥも、この音に誘われたらしい。
規則正しい呼吸にあわせて、ユズハの髪をくすぐるアルルゥの髪。
ユズハとアルルゥは、ひとつの枕を共有して眠っていた。
(そういえば……この枕はどこから……?)
確認するように自分達が枕にしていた物を触る。
暖かい……と言うよりは、人の温もりといった感じがする枕。
確かに柔らかいはずなのに、どこか堅い印象を受ける枕。
不思議な感触の枕に眉をよせ、さらに念入りに触り始めるユズハの手。
「うおぉっ!?」
奇妙な悲鳴が聞こえると、目が覚めても変わらず響いていた算盤の音が止まった。
「ハクオロ様?」
「んぅ~?」
ハクオロの声に、アルルゥも目を覚ましたらしい。ハクオロの膝枕から頭をもたげ、もぞもぞと身体を起こしている。
「なんだ、起こしてしまったか」
奇妙な悲鳴を誤魔化すように、アルルゥとユズハの頭に添えられた手。
優しく髪を梳くハクオロの手に、再びまどろむ。
「んふ~」と嬉しそうに咽をならすアルルゥ。
そこに微かな足音が近付いて来た。
忙しそうに、それでいてどこか嬉しそうな……華やかな足取り。
ハクオロの膝枕は名残り惜しいが、ユズハはそっと身体を起こし、扉に顔を向ける。
扉の外から聞こえるエルルゥとトウカの声。
「失礼します」
少し間を置いて開かれる扉。
「ハクオロさん、お茶を持ってきました……って」
盆にお茶と茶請けを乗せたエルルゥが、両手の塞がった格好から器用に扉を閉め、ハクオロの隣のアルルゥに気がついた。
「アルルゥ? またハクオロさんのお仕事を、邪魔してるんじゃないでしょうね?」
開口一番に出てきた姉の言葉に、アルルゥは拗ねるように唇を尖らせた。
「アルルゥ、おと~さんの邪魔してない」
枕にはしたが。
事実、自分達が寝ている間もハクオロは仕事をしていた。
なんの問題もない。
「そうなの? 本当に?」
「ん!」
ハクオロにも確認するエルルゥに、自分が信用できないのか、とアルルゥが尻尾で床を叩く。
「ごめんね、アルルゥ」
エルルゥの謝罪の言葉に、ぷいっと顔をそらすアルルゥ。
不用意な発言でアルルゥを傷つけてしまった。
「おわびに今夜のおかず、アルルゥの好きな物作ってあげるから」
「お姉ちゃん……食べ物でごまかす。ずるい」
アルルゥの鋭い一言。
今まさに、食べ物で機嫌を直そうとしたエルルゥには痛い一言だった。
「……ごめんなさい」
しゅんとうなだれるエルルゥに、アルルゥが一言付けくわえる。
「でも、ネウの乳に林檎付けてくれて、おばあちゃんの卵焼き作ってくれたら……いいよ」
「え?」
なんだかんだと言いながら、やはり食べ物で許すアルルゥ。
『おばあちゃんの卵焼き』という単語に微笑むエルルゥ。
「おばあちゃんの卵焼き、お姉ちゃんしか作れない」
今は亡き祖母の味を受け継いでいるのは、エルルゥだけだった。
「じゃ、腕によりをかけて作るから……アルルゥも手伝って」
エルルゥの誘いに、少し迷うアルルゥ。
「アルルゥ? 卵焼き、食べたくないの?」
「うぅ~」
卵焼きは食べたい。
ただの卵焼きではない。おばあちゃんの味の卵焼きだ。
でも今は……ハクオロのそばにベナウィがいない。
日中は中々かまってもらえない父に、甘え放題のこの好機。
食べ物ひとつで逃すには……少し惜しい。
父をとるか、食べ物をとるか。
アルルゥとしては大問題だった。
「夕飯の支度をアルルゥが手伝うのか……」
うんうんと唸って、悩んでいるアルルゥの頭に添えられるハクオロの手。
「アルルゥ、今夜の夕飯は期待しているぞ」
その一言がアルルゥの心を決めた。
ぱっと顔を輝かせ、「ん!」と短く返事。すくと立ち上がる。
「ハクオロさん、私にはそんな事言ってくれないのに……」
っと少し拗ねるエルルゥの背を押し、調理場に向かうアルルゥ。
「お姉ちゃん、早く」
遠ざかる仲の良い姉妹の足音を見送って、ハクオロが腰をあげた。
「ハクオロ様?」
仕事の続きはいいのか? と顔をあげるユズハに微笑む。
「こんな所で眠っていたから、身体が冷えただろう。部屋まで送ろう」
ハクオロに促され、ゆっくりとユズハは立ち上がった。
本音を言えば、もう少し一緒に居たかったが、そうそう我侭は言えない。
アルルゥもカミュも、ハクオロと一緒にいたいのを我慢して、それぞれの役割を果たしているのだ。自分だけが甘えていいわけがない。
ハクオロの手につかまり、ゆっくりと書斎を後にした。