トランバンの騎士
そういえば、昨夜はなにも疑問に思うことなく、老女に出されたハーブティーを飲んだ。香りから、まったく記憶に無い『おそらく』ハーブティーを。
あの時自分の緊張を和らげてくれた温かい液体は、曲がりなりにも熱が通ったものではあったが。
一度疑い始めてしまっては、全てが怪しく、恐ろしいものに思えてくる。
「……あの、お水は、いらないの」
折角汲んでくれたのだから、と佳乃は何度か口へと運ぼうとはしたが、結局桶に唇をつけることはできなかった。
ごめんね、と一言だけ詫びて佳乃は桶をイオタへと返す。
桶を返されたイオタは、不思議そうに佳乃を見上げた。
心配気に見上げてくる双子とイオタの視線に耐えかねて、佳乃は別の話題を探す。
「今日はお手伝い、しなくていいの?」
佳乃の手を引き、外へと連れ出した子ども達に、佳乃は聞く。
そういえば、彼らは先ほど水汲みは自分たちの手伝いだと言っていた。正確な年齢はわからないが、佳乃の腰ほどの背丈しかない彼らにまで手伝いをさせる場所だ。きっと、水汲み以外にも手伝いはある。
「朝のお手伝いは、もうおわったよ」
「おねえちゃが、いちばんおねぼう」
「きょうはエンドリューさまがお手伝いしてくれたから、水くみもすぐにおわったの」
自分たちだけでやると、いつもは半日かかる、と身振りを入れて双子は語る。
その小さな唇から漏れた名前に、佳乃は首を傾げた。
「エンドリューさま、たてつけなおしてくれてる」
「……エンドリューさま?」
『様』と敬称の付けられた名前に、佳乃は眉をひそめる。
微かに聞き覚えの有る名前だった。
知り合いにはいない名前であったが、いったいどこで聞いたのか――とも思ったが、その疑問は続いたイータのどこか誇らしげな説明に氷解する。
「あのね、エンドリューさま、きしさまなの」
聞き覚えのある名前にわずかな希望を見出してしまったが。
正体を聞いてしまえば、なんのことはない。昨夜自分を助けてくれた騎士の一人だ。リーダー格と思われるイグラシオという男性が昨夜この施設へと残していった少年騎士の名前が、エンドリューだった気がする。双子の話しによれば施設内にまだ居るようだが、今朝――太陽の位置を見ると、もう正午近い――はまだ顔を見てはいない。
姿の見えない騎士を、佳乃は利用することにした。
「じゃあ、水汲みをお手伝いしてくれたエンドリュー様のお手伝いにいかないとね」
佳乃は腰を落とし、子ども達と目線を合わせる。と、佳乃の提案に双子はパッと顔を輝かせた。
「あ、そっか」
「エンドリューさまのお手伝いする」
にこにこと笑い、双子はイオタの手を取ると、施設の裏口へと駆け出す。
双子に手を引かれながら、イオタが何度か佳乃を振り返る。が、結局は一言ももらすことなく双子と一緒に施設の中へと入っていた。
施設の中へと駆け込む3人の子どもを見送り、佳乃はホッと息を吐く。ようやく静かになった、と。
それから気がついてしまった。
(オタクとしては、一度はちらりとでも望むトリップ状態とはいえ……)
水を口に入れるだけでも勇気のいる世界は嫌だ。
たとえ生活用水として使われていると言われても、絶対に大丈夫だという保証がない限り、不安はいつでもついて回る。
(……とりあえず、昨日の場所にでも行ってみる?)
オタクの夢、異世界へのトリップにせよ、神隠しにせよ、現れた場所から元の場所へと帰れるパターンは多い。
少なくとも、この水を飲むにも戸惑う世界で突っ立っているよりは、はるかに有意義なはずだ。
そう結論づけると、佳乃は重い腰を上げた。
イグラシオが佳乃を預けた施設は、村人からは『ネノフの家』と呼ばれている。ネノフという修道女が預かる孤児院にして、人々の信仰の場である教会を兼ねていた。礼拝の場としての教会は、集会の場としても使われることがある。孤児院としての『家』は、親を亡くし行き場を失った子ども達が預けられていた。
現在、孤児院にいる子どもの人数は8人。齢60を越えたネノフが一人で預かるには限界のある人数だった。
イグラシオは丘の上に立つ孤児院の門に着くと、馬の背を降りる。その背には一袋の小麦が乗せられていた。人手が足りないという意味でも孤児院の経営は苦しかったが、食料の確保という意味でも苦しい。直接金銭を渡してしまうと、ネノフは他の村人に分けてしまうので、イグラシオはいつでも食料を運ぶ。金では食料以外も買えてしまうため、直接小麦を運んだ方が孤児たちの口に入る量が多い。
もっとも、喰うに困るという話しならば、孤児院に限った話しではなかったが――
「団長!」
門扉を開き、イグラシオが馬の手綱を引き孤児院の敷地へと入ると、二階から声をかけられた。
聞きなれた声に顔を上げると、エンドリューが二階の窓枠からこちらを見下ろしている。彼は鎧を身に着けず、袖口を捲くり上げて金槌を持っていた。その姿に、老朽化の進んだ孤児院の修復を頼まれたのだろう、と理解して応える。
「エンドリューか。せいがでるな」
「はっ!」
と、ねぎらいの言葉を掛けてから、イグラシオは思い出す。それから、おもむろに一言追加した。
「今度は落ちるなよ」
「……はい」
イグラシオとしては釘を刺しただけのつもりであったが、エンドリューには違ったらしい。
過去の失態――以前にも、孤児院の修繕手伝いを名乗りで、二階から落ちたことがある――を思いだしたのか、がっくりと肩を落としてから、すぐに気を取り直して顔を上げた。
「……ではなくてですね」
呼び止めた本来の目的を達しようと、エンドリューは口を開く――と、『お手伝い』と称して自分の作業を見物していた双子が窓枠へと乗り出した。
「あ、イグラシオさまだー!」
「シオさまだー」
「何しにきたの?」
「あそんでくれる?」
「おべんきょう教えてくれるの?」
「ご本よむ?」
窓辺に張り付き、口々に思いついた言葉をさえずる双子に、イグラシオは苦笑した。よく見ると、双子が窓から落ちないように、とそちらにばかりエンドリューの気が行き、自分の安全への配慮はおろそかになっている。手に持っていたはずの金槌は双子の体を支えるために窓枠の隅へと置かれ、今にも落ちそうだ。金槌が落ちれば、今度はそれに気を取られたエンドリューも落ちる。今の状態が長く続けば、エンドリューは間違いなく二度目の二階から転落という不名誉な称号を受け取ることになるだろう。幸いなのは、今回は双子を支えていたため、という名誉も付加するぐらいだろうか。
元気な双子に言葉を遮られ、自分と同じように苦笑を浮かべているエンドリューに、念のためもう一度注意を促そうと口を開いたイグラシオを、今度は玄関から出てきたネノフが遮った。
「テータとイータはご機嫌ね。
でも、エンドリュー様のお仕事の邪魔をしてはいけませんよ?」
「邪魔してないの」
「お手伝いしてる」
ネノフの言葉に憤慨し、双子はそう応える。それを受けたネノフは、笑みを深めた。
「はいはい。お手伝いしているのね。……エンドリューさま、お茶を入れますので、休憩にしてください。
イグラシオ様もいらして下さったことですし」
「はい」