トランバンの騎士
それらの番組を、どうせ作り話だとバラエティ番組感覚でみていた頃が懐かしい。消えてしまった子どもからしてみれば、現在佳乃が置かれている状況と似ていたのかもしれない。気がついたら知らない世界に来てしまっていた、というこの状況は。
(素人どっきり……なんてことは、ないよね? だとしたらお金かけすぎだし)
昨夜もちらりと考えた、非現実的ながら一番現実的にありうることを考えて、佳乃は頭をふる。建物はともかく、山や森を仕掛けとして作ることはできない。可能といえば可能ではあろうが、佳乃という生きた人間に気づかれずそれを用意し、またそれと気づかせずにあの森の中へと誘い込むことは不可能だ。あの森へは確かに帰路の途中に偶然迷い込んだのであり、飛行機や電車にのってどこかの映画撮影所へといったわけではない。これだけの大掛かりな仕掛けを、佳乃の生活圏内にそれと気づかせずに用意することは不可能だ。
取りとめもなく浮かんでは否定される仮定に、佳乃は再びため息をもらす。
考えれば考えるほどわからなくなる。
自分が立っている場所がどこで、どうすれば家に帰れるのか、が。
「……?」
不意に小さな手に指を掴まれ、佳乃は瞬く。
くいくいっと自分の手を引く相手に視線を落とすと……いつの間に側に戻ってきたのか、イオタが佳乃の顔を覗き込んでいた。
「……なに?」
イオタの緑色の瞳にじっと見つめられ、佳乃は瞬く。
首を傾げ、何か言いたいことがあるのか? とイオタが口を開くのを待ったが、イオタは何も言わない。ただじっと気遣わしげに佳乃の顔を見上げていた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
少し離れて遊んでいたイータが、イオタの行動に気がつき、佳乃の側へと戻ってきた。それに続いてテータも佳乃の側へと駆け寄る。
「おなか、すいた?」
首を傾げるテータの言葉に、佳乃には一言も答えなかったイオタが反応した。
パッと佳乃の手を離し、建物の裏側へと走り出す。
その姿を見送って、今度はイータが佳乃の右手を引いた。
「……何?」
瞬く佳乃の左手を、イータに続いてテータが引く。
「こっち」
「ん、こっち」
小さな力でグイグイと自分を引き、どこかへと連れて行こうとする双子に、佳乃は流されるままに従った。
双子に案内され、ぐるりと回りこんだ建物の裏手には、屋根のついた井戸があった。
雨よけのための屋根なのか、単純に必要だから着いているのかは佳乃にはわからなかったが、滑車のついた屋根の下にイオタがいる。残念ながらポンプ式ではないらしい井戸を覗き込み、滑車からのびるロープを引くイオタに、佳乃は双子の手を離すと慌てて駆け寄った。
「あ、危ない……」
イオタが使っているのだから、枯れ井戸ということは無いだろうが、どちらにせよ、落ちては大変だ。佳乃はイオタの下へと駆け寄ると、その小さな肩を捕まえる。軽く自分の体へ引き寄せ、井戸を覗き込んでいたイオタの体を抱きしめると、イオタは不思議そうな顔をして佳乃を見上げた。
「あぶないの?」
「じょぶ」
「いつもお手伝いしてるもん」
佳乃とイオタに追いついた双子が口々に口を開く。彼女たちのきょとんっと瞬いた顔に、慌ててイオタを抱きとめた佳乃を安心させようという意図があるとは思えない。危ない、と引き寄せられたイオタも、あい変わらず不思議そうな顔をしていた。
「お水くみ、テータたちにもできる」
「水がめにはこぶのは、アプルハのおしごとだけどね」
「イオタもちゃんと、お手伝いする」
つたない口調で語られた言葉に、佳乃は瞬く。
自分の腰ほどの背丈しかないイオタが井戸を覗き込んでいたため、咄嗟に危険だと判断し、とめに入りはしたが――どうやらそれは完全に思い違いだったようだ。井戸からの水汲みは、彼女たちにしてみれば、日常の手伝いに含まれるらしい。佳乃とて子どもの頃に家の手伝いをしたが、井戸の水を汲むなどという重労働はしたことが無い。まして、転落の危険と隣り合わせの『お手伝い』など。
双子の説明にとりあえずは大丈夫なのだろう、と自分を納得させてから佳乃はイオタの肩を掴んでいた手を離す。と、イオタは佳乃に向けていた視線を井戸の中へと戻し、作業を再開した。
彼らにとっては慣れた作業だとわかってはいても、佳乃は怖々とイオタの作業を見守り、井戸そのものも観察する。
実際に使われている井戸など、見たことがなかった。
石で組まれた井戸の縁に、滑車のついた屋根。屋根自体に役割があるのかは判らなかったが、滑車の役割はわかる。いわゆる梃子の原理で、少ない力でより多くの水をくみ上げるための仕組みだ。イオタが引いているロープの他にもう一本のロープがあり、その先にはやや大きめの桶がつながれ、縁の上に置かれていた。イオタが使っている井戸の中へと落とされたロープの先を見ると、縁に置かれたままの桶よりは一回りほど小さな桶が結ばれている。つまり、もう少し大きな子どもであれば大きな桶で水を汲み、小さな桶はイオタたち小さな子どもが水を汲むように分けられているのだろう。
そう佳乃が理解すると、イオタの引くロープはようやく彼の目の前へと帰還を果たした。
「お水、どうぞって」
無言のままに佳乃へと水の入った桶を差し出すイオタに変わり、テータが口を開く。
一番口達者なのはイータだが、イオタの言葉はやや舌ったらずな口調でテータが代弁してくれる。肝心のイオタは僅かな声すら漏らしはしなかったが、テータの言うとおりなのか、こくこくと頷いていた。
「え?」
差し出された桶を受け取り、佳乃はイオタと水の入った桶を見比べる。
訳がわからずしばらく悩んでいると、イータがさらに説明を追加してくれた。
「お腹がすいているとき、お水でお腹をいっぱいにするの」
イータの説明に、テータもこくりと頷く。
「おねえちゃも、おなかすいて元気ない?」
「だからイオタ、お水どうぞ、って」
つまり、佳乃がぼんやりと考え事をしていたのを見た子ども達が、お腹がすいて元気がないのだろうと勘違いし、心配してくれたらしい。
双子の説明にようやくイオタの行動の意味を理解すると、佳乃は桶を見下ろした。
「ありがとう」
と、お礼を言っては見たが、考える。
(井戸水って、飲んで大丈夫なの?)
子ども達にしてみれば、普段から飲んでいる水だろうが。
佳乃にしてみれば、それはまったく違うものにも見える。
先ほど朝食として出された見たことのない形をした野菜同様、口に入れるには少々勇気が必要だ。
(汚染とか、雨水とか……大丈夫なのかな。
あと、あれなんだっけ? なんか、口や鼻から入る寄生虫だか、アメーバ……)
要らぬ知識は時として邪魔となる。
神隠し同様、昔みた見た環境問題やら寄生虫特集等のテレビ番組を思い出し、佳乃は眉をひそめた。
目の前の水はペットボトルのミネラルウォーターでも、カルキ臭いが消毒のされた水道水でもない。一応生活用水としては使われているようではあったが、お世辞にも清潔とは言えないだろう。
(……やっぱり、一度沸騰させてからの方が)
煮沸消毒という言葉を思い出し、佳乃は冷や汗が背筋を伝うのを感じた。