トランバンの騎士
佳乃はゆっくりと周囲を観察しながら歩く。森を歩くという行為自体に慣れていないため、ここが本当に昨夜の森なのか? という不安は拭い去れない。が、たとえ間違っていたとしても佳乃にはそれを知る手段が無い。
とにかく、今自分出来ることは、自分の家へと帰る手段を手探りででも探すだけだ、と自身を奮い立たせて佳乃は森を歩く。昨夜の盗賊に襲われた恐怖はある。けれど、今は明るい昼間だ。たとえ盗賊が山や森の中に潜んでいようとも、昼間の間はまだ安全だろう。そう自分に言い聞かせながら。
夜とは違う森の雰囲気に、佳乃はそれでも慎重に足を運ぶ。
青々と茂った葉の隙間から青空を見上げ、すぐに視線を落とす。足元には枯葉の山。それと下草。獣道などあったとしても、佳乃にはそれを見つけるだけの知識が無い。そんな知識があったのなら、もしかしたら昨夜自分たちが歩いた足跡から、正確な場所へと辿り着けたはずだ。
それから気がついた。昨夜の漠然とした違和感の正体に。
全体的に、木の幹が太いのだ。
佳乃の知る公園や山の木は、みな人間が植林と称して植えたものだ。いかに年輪を重ねようとも、自然に生えた木々には劣る。
それがどうだ。今佳乃の目の前にある木々は、これまでに佳乃が見たどの木よりも太く、雄雄しく天に向かって枝を伸ばしている。
佳乃の世界の木とは、根本的に生きてきた年代が違うのだ。
――カサッと、不意に聞こえた音に、佳乃は足を止める。
薄く乾いたものを踏み潰したような音は、枯葉を踏んだ音だ。もちろん、佳乃が歩く度にもその音はしている。が、今の音は佳乃が立てたものではない。それだけは判る。確実だ。
枯葉を踏む音は、佳乃が進む森の中から聞こえた。
「……誰?」
もしかして、また盗賊か何かだろうか? と佳乃は怖々と声をかける。
動物であれば、それで逃げてくれるかもしれなかったし、盗賊であれば――抵抗手段が無い。後ろからばっさりと殺されるぐらいならば、少し怖いが大人しく捕まったほうが良い。もちろん、隙があれば逃げだすことを前提に。
佳乃は震え始めた自分の肩を抱き、音の聞こえた方向へと視線を向ける。
じっとそちらを睨み身構えていると――木々の間から、頭に赤いバンダナを巻いた金髪の女性が姿を現した。
「……女の人?」
予想外の出現ではあったが、女性の姿に佳乃はホッと息を吐く。
相手が女性であれば、食べられる心配も、殺される心配も、売られる心配も必要はなさそうだった。
佳乃の姿に一瞬だけ驚いた金髪の女性は、自分の姿を見て露骨に気を緩めた娘に苦笑を漏らす。
「こんな森の中で、女の子の一人歩きは危険だよ?」
優しい響きをもった女性の声に、佳乃は僅かに口元を綻ばした。
なんだか、緊張しすぎた自分が馬鹿らしく、恥ずかしい。クマか盗賊かと思えば、相手は女性。それもなかなかの美人だったなどと。
「あ、はい。でも、あの……」
なんとなく頼りたくなってしまうような雰囲気をもった女性に、佳乃は口元を引き締める。
『女の子の一人歩きは危険』という言葉の意味が、昨夜佳乃が遭遇したような危険であれば、目の前の女性にも『危険』は当てはまるのだ。
「あなたも、一人歩きは危険ですよ」
そう佳乃が注意すると、女性は微かに苦笑を浮かべる。
その緊張感のない微笑みに、佳乃はなおも注意を促した。
『危険』というのは脅しではない。昨夜自分の身に降りかかったばかりの災厄なのだから。
「わたしも昨日、この森で盗賊らしい人に攫われかけましたし……」
「え?」
佳乃の言葉に、女性はようやく危険性を理解してくれたのか、眉をひそめた。それから何事かを考えるかのように幾許か沈黙すると、口を開く。
「……それは怖いね。それで、その盗賊達に襲われたはずのあんたは、どうして無事なんだい?」
女性の一人歩きで盗賊に襲われたのならば、まず助からない。
にも関わらず、佳乃は無事にこうして森の中を歩いている。少々無用心ではる気がするが。
「え? あ、ハイ。その……騎士? 鎧を着た男の人が助けてくれまして……」
あまり思いだしたくは無いが。なぜ自分が無事なのかを説明し、金髪の女性にもその危険性を訴えようとして、佳乃は思いだした。
自分は、イグラシオと名乗る男に助けられておきながら、まだ礼を言っていない。それどころか、一言も告げずに預けられた施設を出てきてしまった、と。
そう気がついたが、今更戻るわけにもいかない。
佳乃は一刻も早く、元の世界へと帰りたかった。
「それで、その盗賊達はどうなった?」
「たしか、どこかに連行するって言ってました」
「どこに?」
「ええっと……?」
盗賊の話に興味を持ったらしい女性に聞かれるままに、佳乃は記憶を手繰る。
たしか、昨夜イグラシオの口から地名らしい場所が出ていた。聞き覚えがあるような、聞き覚えなどあるはずもない名前が――と、そこまで考えて、気がつく。
目の前の女性は、盗賊『達』と言った。
佳乃は、盗賊に攫われそうになった、としか言ってはいない。
少なくとも、盗賊が複数であったとは、一言も言っていないはずだ。
そう気がつくと、目の前の女性の不自然さが際立ってくる。
女性は『女の子の一人歩きは危険だ』と佳乃に言った。が、言った本人も一人歩きをしている。
『盗賊』としか話していない佳乃に対し、『盗賊達』とまるで複数であったことを知っていたかのようなことを言う。
おかしい。
目の前の女性は、何かがおかしい。
佳乃は無意識に一歩後ずさる。
相手は女性であったが、怖かった。昨夜の盗賊以上に。
「お嬢さん、どうしたの?」
「……いえ、あの」
佳乃の異変に気がついたのか、女性は艶やかに微笑んだ。
一歩後ろへと下がる佳乃に、女性は微笑みを浮かべたまま一歩距離を詰め――遠く聞こえる蹄の音に、佳乃はまた盗賊が来たのか身を硬くする。が、蹄の音に対して金髪の女性が取った行動は佳乃とは違うものだった。
「ちっ!」
金髪の女性は佳乃から飛びのき距離をとる。
と、それを見越していたかのように、佳乃と女性の間を栗毛の馬が通り抜けた。
佳乃は驚いて腰を抜かし、馬の背に乗る人物を見上げる。佳乃が馬の背にのった漆黒の鎧と銀髪に気がつくより早く、金髪の女性はどこかから短剣を抜き出していた。
「……イグラシオ、さん?」
馬の背に乗る昨夜と同じ光景に、佳乃は瞬く。
昨夜と違うのは、イグラシオが対峙する相手が盗賊ではなく、金髪の美しい女性であることぐらいだろうか。
とはいえ、その女性=盗賊と考えても間違いはなさそうだった。
佳乃と女性の間に立ち、馬上のイグラシオは静かに腰の剣を抜く。
「金髪に緋色の瞳……、おまえが盗賊どもの頭目ヒルダか」
イグラシオは佳乃と向き合っていた金髪の女を見下ろす。その容姿から導き出された情報に、眉をひそめた。
女盗賊ヒルダ。近年自治領トランバンを荒らし回っている盗賊団の頭目だ。トランバン市民からは義賊として親しまれてはいるが、イグラシオに言わせれば盗賊は盗賊だ。盗品の使い道はともかく、他人の財産を盗み出すという行為が犯罪であることに変わりは無い。