トランバンの騎士
手伝った方が良いのだろうか? そうは思うが、何をしたら良いかが判らない。そして、傷は左頬――と、鏡を使わなければ見ることのできない位置にあるというのに、イグラシオの手際は恐ろしく良い。ただの勘なのか、慣れているのかといえば、おそらくは後者だ。昨夜もそうであったが、相手が盗賊とはいえ、イグラシオは剣を振り下ろす事に対して迷いを見せない。人間相手に、それを傷つけるための剣を振るっているというのに、だ。ということは、自身に刃を受けることも多々あったのだろう。
怖々と作業を見守る佳乃に、イグラシオは早々に処置を終える。血止めの薬を塗り、当て布をしてから、ようやくイグラシオは佳乃へと顔を向けた。
「さて……」
エンドリューは賊を追い、自分は負傷。とりあえず、探していた佳乃の身柄は確保したが、彼女が黙って家を出た理由を自分は知らない。このまま連れ戻そうとして、素直について来るかは怪しいだろう。とはいえ、帰る場所を思い出したのならば馬もあることだし、このまま佳乃をそこへ送っていっても問題はない。
「佳乃」
「は、はいっ!」
帰る場所を思いだしたのならば送っていく。そう提案しようと思っただけなのだが、イグラシオの呼びかけに佳乃は過剰に反応した。そのあまりに過剰な反応に、イグラシオは佳乃の視線の先――自分の手のひらを見た。自分の手のひらは、頬から流れた血によって赤く染まっている。
つまり、佳乃は血に反応しているのだ、と気がついた。
「……そんなに堅くならなくてもいい」
「はい、すみません」
「謝る必要もない」
盗賊相手に不覚を取ったのは、自分の落ち度なのだから。
そう言外に込めるが、佳乃には通じなかった。
佳乃はイグラシオの血に濡れた手をじっと見つめると、眉をひそめる。
「だって……」
イグラシオがなんと言おうが、自分の行動がイグラシオの気を削ぎ、傷を負わされる原因となったことに違いはない。
なんと詫びればいいのか……と佳乃が俯くと、イグラシオは佳乃の視線から手を背中へと隠してしまった。
「女性を守るために負った傷は、騎士としては勲章だ。
気にする必要はない」
「でもっ……」
「それよりも」
なおも言い募ろうとする佳乃を、イグラシオは遮る。
佳乃の口から聞きたいのは、謝罪の言葉ではない。
「何故、エンドリューにも、ネノフにも何も告げず、村を出たのだ?」
村を出る以前に、孤児院の敷地から出るだけでも、一時的にとはいえ孤児院へと預けられた身の佳乃は、誰かにそれを告げるべきだった。
が、佳乃はそれを怠った。黙って孤児院から抜け出し、それどころか村からも外れ、森の中へと。
イグラシオが佳乃を見つけられたのは、ただの幸運にすぎない。出自不明の佳乃が向かいそうな場所として、佳乃を見つけた場所へと着てみただけだ。そこで幸運なことに佳乃を見つけ、不運なことに盗賊と出くわした。
「それは……」
イグラシオの言葉に、佳乃は答えなければならない。
佳乃は二度もイグラシオに救われ、故意ではないにせよ傷まで負わせてしまったのだから。
とはいえ、どう説明したものか……と佳乃は考える。いきなり自分は別の世界から来た。なので元の世界に帰る方法がないか、探しに出た等と正直に話しても、信じてはもらえないだろう。異邦人となってしまった佳乃からしてみれば、この世界の多くは違和感を覚えるものであり、『この世界』が自分の生まれた世界とは『違う世界』だと自覚できた。が、『この世界』に生まれたイグラシオにしてみれば、佳乃が覚える違和感は当たり前のものだ。佳乃と同じ過程を経て、佳乃を『違う世界の住人』と認識することは難しい。佳乃がまったく常識の異なる世界から来たと言ったところで、イグラシオにはそれが認識できないのだ。認識できないものを信じてもらえるとは思えない。むしろ、信じない方が普通であろう。佳乃には、自分が別の世界から来たと証明する方法もなかった。
言い淀む佳乃に、イグラシオは眉をひそめる。
誰にも行き先を告げずに佳乃が預けられた家を出る理由を、イグラシオなりに考えてみた。
「……盗賊の仲間、とも思えないが」
村を出て佳乃がしていた事といえば、盗賊の頭目に会っていたぐらいだ。被害者の振りをして保護され、預けられた場所を内側から探り、あとで合流した仲間に情報を流すか、盗賊を自ら招きいれる。そういう盗みの手段もある。
とはいえ、佳乃は盗賊と自分が対峙した際に、どちらの味方もしなかった。という事は、佳乃は盗賊の仲間ではない。
「それは違います! わたしは、わたしは……」
盗賊の仲間などと、とんでもない。そう語尾を強め、イグラシオの青い目を見て反論するが、佳乃の言葉はすぐに勢いを失う。
自分のせいで傷を負った男の目と、血の滲む白い当て布を見つめ続けることに耐えられず、佳乃はそっと目を逸らした。
ただ、家に帰りたかっただけ。
そう続けたかったのだが、佳乃の唇からもれたはずの言葉は、佳乃自身であっても聞き取れないほどに小さく消える。
「……帰るべき場所は、思いだせたのか?」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声だったが、イグラシオは佳乃の『家に帰りたかった』という言葉を拾い取ってくれたらしい。幾分穏やかになった声音に、佳乃は小さく頷いた。
「場所は忘れていません。けど……」
帰る方法がわからない。
それをどう説明したものか、と佳乃は再び考える。
どう考えても、誤解を与えず、またすんなりと相手を納得させる言葉が思い浮かばなかった。
「……けど、帰り方が判らない」
答えを急かさないイグラシオに、佳乃はたっぷりと考える時間を与えられたが、結局良い答えは見つからず、素直に感じたままを言葉にした。今すぐに帰り方が判らないのならば、時間をかけて説明しても良いはずだ、と自分に言い聞かせて。
「ここは、わたしの住んでいた所じゃない……」
飲み水や野菜への違和感もあるが、イグラシオと盗賊のやり取りを間近く見て、違和感よりも恐怖が勝った。
ここは自分のいるべき世界ではない。
一刻も早く、元の世界へ帰りたい、と。
情けないことに、つんっと痛む鼻筋に、佳乃は忙しく瞬きをする。
まさか、この歳になって『迷子』で自分が泣きそうになるとは思わなかった。
「帰る方法がわからない……?」
佳乃の言葉の意味が判らないのだろう。戸惑いを含むイグラシオの声音に、佳乃は素直に頷く。
虚勢も嘘も必要はない。
ただ素直に佳乃にとっての真実を語る。
「……では、今のところは帰れないのだから、諦めてくれ」
イグラシオは、今の佳乃にとってはこれ以上ないであろう残酷な言葉を呟き、佳乃を見つめる。
イグラシオには佳乃の言っている言葉の意味は理解できないが、目の前の娘が嘘をついていないことだけはわかった。というよりも、言っている本人が一番己の状況を理解できておらず、戸惑っているのがわかる。そして、本人にできる限りの誠実な回答をしている、とも。
となれば、理解できずとも、信用するしかない。
少なくとも、佳乃は盗賊の仲間ではなく、帰る場所があるが、帰り道を思い出せないだけなのだ、と。