トランバンの騎士
そんな暮らしぶりなので、粗食にも慣れるのが早い。最初は戸惑った野菜も台所を手伝ってみれば、形や大きさが違うだけで佳乃の知っている野菜を見つけることもできたので、楽しい。明らかに見た目に違和感のある野菜もあることはあるが、『自分が見たことのない』物など、世の中には掃いて捨てるほど存在する。その一つだと思えば、克服することもできた。食べてみると、癖のある味が存外美味くもある。それよりも、佳乃はまだ孤児院で暮らすようになってから肉を食べていない。肉を食べる時には、その家で飼っている家畜を絞めて捌くと聞いた。佳乃の場合、毎朝産み落とされる卵を取るだけでも大騒ぎになるのに、それを捕まえて絞めるとなると気が遠くなる。百歩譲って鳥は良い。それよりも大きな――牛やブタを食べたくなった時も、ここでは同じ事をするのだろう。とはいえ、肉はご馳走だと聞いた。そう滅多な事では食卓に上ることは無いだろう。特に、農村でありながら、農民が食べるのに困窮しているこの村においては。
佳乃の感想としては、暮らしは大変だが、逆に刺激的で楽しくもある。
刺激的というよりは、カルチャーショックだろうか。
佳乃には多くの日本人がそうであるように、親愛の情を込めてキスをするという習慣がない。が、ファンタジー世界のような服装に身を包む孤児院の子ども達は違った。
毎夜、毎朝当たり前のように親愛のキスをする子ども達に、最初佳乃は戸惑った。
帰る方法を思いだすまで、という条件のもと、正式に孤児院に預けられる事となった夜。孤児ではないが孤児院に身を置き、仮に自分たちの家族となった佳乃に、子ども達は当然のようにキスをねだった。それに対し、どう返したものかと佳乃は戸惑い、素直に暴露した。
親愛のキスなど、した事が無い、と。
それを聞いた子ども達の反応は、佳乃の想像とは違った。
親愛のキスをしたことがないという佳乃の言葉を、親愛のキスすら十分にもらえなかったと受け取り、『自分たちと同じ』だと理解した。そして、自分たちがネノフから受けてきた愛情を分け与えるかのように――佳乃に親愛のキスを『贈って』くれた。それも、かなり熱烈に。それまで一言も口を利いてくれなかったズィータが、これをきっかけに話してくれるようになったので、怪我の功名と言えなくもない。だが、計8人の子どもから一斉にキスを贈られるのは、やはり中々に迫力がある。正直なところ、食べられてしまうのではないか、と少しだけ怖かった。
(……そういえば)
と、佳乃は思い出す。
孤児院の住人になった、初めての夜。
キスの嵐の後、イグラシオも子ども達にキスをしていた。
(顔は怖いけど、いい人)
ズィータに傷の無い右頬へとキスをされ、それでも少し痛そうに顔を歪めていたイグラシオの顔を思い出し、佳乃は苦笑を浮かべる。
顔は怖いし、言うことも厳しい。が、そんな事は気にならないほどにイグラシオは周りに対して細やかに気を配る。
ネノフの言うことには、元々はこの孤児院で預かっていた子どもの一人だったらしい。それが良い家に養子として引き取られ、今は領主のいる街で、領主の身を守る騎士をしている。が、成長した今でも孤児院の子どもは自分にとって兄弟のようなもの、と何かにつけて気にかけてくれ、時々小麦や薬を寄付してくれている、と。
『もっとも、最近は訪ねてくる回数が増えたわね。
前は月に一度来るかどうかだったけど、ここしばらくは十日と日を空けずに顔を見せてくれる』
やっぱり、若い娘がいると違うわね。そう意味深に微笑むネノフを思い出し、佳乃は笑みを深めた。
ネノフには悪いが、イグラシオの目当ては自分ではない。
イグラシオは佳乃に対して気を配る振りをして、孤児院へ来る回数を増やしただけだ。
本人に言われているので、間違いはない。ネノフもそろそろ歳なので、気を配って欲しい、と。子ども達だけでは手の回らない、体格的にも困ることが、そろそろあってもおかしくはない、と。
とはいえ、佳乃は体格こそ成人女性ではあったが、『この世界』における一般常識や知識に疎い。老女に対して気を使って欲しい、と側に置くには何も知らない子どもを置くのと大差はない。そこだけは、イグラシオにとっては誤算であっただろう。逆に、佳乃に色々教えなければ、とネノフがますます元気になったので、その誤算も嬉しい誤算と言った方が正しいだろうが。
時々ネノフにやり込められる銀髪の騎士を思い出し、佳乃は笑う。
顔は確かに怖い。が、いい人。
あの騎士は、たった数年育てられた恩を忘れず、成人を過ぎた今でもネノフを育ての母のようなもの、と慕っているのだから、と。
まだ眠くないと拗ねる双子の少女たちを2段組のベッドに押し込めて、佳乃は額へと『おやすみのキス』を落とす。
最初の一週間はなんとなく緊張したが、今では自然にキスをすることができる自分に、佳乃は僅かに驚く。慣れとは恐ろしい。それとも、すでにそれだけの時間を、この世界で過ごしているだけなのか? とも不安に思うが、佳乃が自然体にキスをすることができるのは、子どもたちだけだ。男女問わず、大人に対してはするのも、されるのも未だになれない。そこに少しだけ安堵する。
この世界に対してすっかり慣れきってしまうのは、やはり怖かった。
双子にキスをしたあと、佳乃はすでに向いのベッドで横になっているズィータの額に唇を落とす。ズィータはすでに睡魔の誘惑に負けているのか、双子のようにまだ眠りたくないとごねたりはしない。佳乃の唇を額に受けると小さな声で答えた。
「……おやすみなさい、……」
「?」
気のせいか、おやすみなさいの後にまだ何か続いた気がする。が、聞き取れなかったので、佳乃は首を傾げるだけにした。
言いたいことがあるのならば、そのうち自分から言い出すだろう、と。
佳乃や大人ならば言い淀むような内容も、子ども達は遠慮なく口に出す。
遠慮や人見知りをしていては、ここでは生きていけないと、幼くして孤児となった彼女たちは、誰よりも理解していた。
自分の言葉は聞こえたようだが、はっきりとは聞こえなかったらしい。首を傾げた佳乃にズィータはそう理解したが、言い直すことはしなかった。
また今度。これからいくらでも『呼べば』いいのだから――と、目を閉じかけ、ズィータは眉を寄せる。
睡魔の誘惑をも蹴飛ばす異変を、感じ取った。
ズィータが目を開くと、佳乃も同じように眉を潜めてあたりを見渡している。
「……なんの音?」
聞きなれない音に、佳乃はあたりを見渡す。が、音の発生源らしきものは何も見当たらない。ということは、音は部屋の外から聞こえてきているのだろう。
音の正体を確かめるべく、佳乃が立ち上がると、ベッドに横になったばかりの双子とズィータもそれに続く。ベッドに戻りなさい、と言おうとも思ったが、やめた。
廊下からも物音がする。
ということは、向いの少年たちの部屋でイオタを寝かしつけていたネノフも、この音に気がついたのだろう。
佳乃は少女たちの部屋から顔を出し、廊下を覗く。タイミングを同じくして、少年たちの部屋からネノフとイオタが顔を覗かしていた。