トランバンの騎士
後ろへと下がったのは、ただの偶然だった。が、一瞬遅れていれば、佳乃は間違いなく『それ』にぶつかり、跳ね飛ばされていただろう。暗闇の中を疾走してきた『それ』は、猛烈な速度で佳乃の目の前を横切ると、佳乃に一瞥を与えることなく通り過ぎていった。
視界を栗色に染めた『それ』を反射的に目で追い、闇に消える後ろ姿――というよりも、尻と言った方が良い――に佳乃は瞬く。
「……って、なんで馬?」
足音の主のむっちりと引き締まった栗色の後ろ姿を思い出し、佳乃はますます困惑し、眉をひそめる。が、いつまでも馬の消えていった闇を見つめているわけにはいかない。足音は、まだ消えてはいない。走り去っていった足音とは別に、まだ数頭の足音が木々の間を木霊していた。
佳乃は近くの木に身を寄せる。これならば、先ほどのようにうっかり撥ねられそうになる心配はない。
佳乃がほっと息を吐くと、最初の馬に続いて2頭目の馬が目の前を横切った。
今度は馬が来ると予想できていたため、佳乃にも馬の様子を観察する余裕がある。
暗闇を猛スピードで疾走する栗色の馬の背に、青いバンダナをした青年が乗っていた。
「それにしても、なんで馬?」
青年の後に続き次々と通り過ぎる馬を見送りながら、佳乃は誰に言うでもなく呟く。
さすがに正確な数は数えられなかったが、20頭はいかない。15・6頭だろうか。背に人を乗せた馬の大群が、佳乃の前を通り過ぎていった。そのうちの一人と目が合った気がするが、気のせいだろう。自分は『馬が来る』と判っていたので相手を見る余裕があったが、相手にしてみれば自分のような者がこんな森の中にいるとは思わないだろう。人が森の中にいると思っていれば、あんな速度で疾走などできないはずだ。
遠ざかる足音に、どうやら全ての馬が通り過ぎたらしい、と胸をなでおろし、佳乃は首を傾げる。
何度考えても、わからない。
いや、目の前を通り過ぎていったものが馬である、ということは判る。距離はともかく、実物を見たこともあったし、テレビでならば何度も見ている。が、間違っても身近とは言いがたい馬が、目の前を通り過ぎていった理由がわからない。
100歩譲って、森の中にいる理由はわかる。公園にある林か、小山にでも迷い込んだのだろう。
が、馬が目の前を駆け抜けていく理由となると……見当もつかなかった。記憶にある限り、佳乃の家周辺に馬を飼育している施設など無い。今立っている森同様、佳乃が知らなかっただけで、実はそういった施設が存在したという事実があれば別であったが。
「……?」
カサッと、不意に聞こえた音に佳乃は首を傾げ、音のした方向へと顔を向ける。
音が聞こえて来たのは先ほど馬が消えていった暗闇だった。
カサカサと落ち葉を踏みしめる軽い足音に佳乃が瞬いていると、先ほどの馬にのった人物が薄笑いを浮かべながら月明かりの下へと姿を現す。
「……あの?」
月明かりに照らされた男の風貌に、佳乃は僅かに後ずさった。
男の浮かべる下卑た笑いだけでも警戒心を掻き立てられるには十分な要素だったが、佳乃の関心はそこだけに止まらない。
背に荷物を乗せてはいるが鞍のない馬と、それに平然と跨る男。
鞍が無くても馬に乗れる者も確かにいるが、それは普段から馬を身近く生活している者だけだ。普通の日本人には無理だろう。
そして鞍のない馬よりも異様なのは、男の服装だった。
間違っても、現代日本の服装ではない。どこか時代錯誤な――中世あるいはファンタジー世界の住民のような服装だ。ジーンズではないし、Tシャツでもない。ゆったりとした袖口に、バンダナを巻いた服装は、まるで映画で見た海賊のようだった。もちろん、佳乃が現在立っている場所は海の上ではないので、賊というのなら海賊ではなく山賊か盗賊になる。そう考えてみると、男は小さな鎧にも見える胸当てを付けていた。
山賊、と浮かんだ自分の考えに、佳乃は身をすくませる。が、すぐに現在の日本に山賊――強盗や泥棒は確かにいるが――はいない、と思いなおした。佳乃を値踏みするかのように馬上から見下ろす男からは今すぐにでも逃げ出したい気はしたが、これはチャンスといえばチャンスだ。人がいるということは、森を抜けられるということになる。
「おい、早く行こーぜ。お頭に置いてかれちまう……」
男の後ろから、さらに別の男の声が聞こえた。
こちらも馬に乗っているらしくカサカサと落ち葉を踏みながら、暗闇から月光の下へと姿を現す。
「こんな山の中に、女なんて……」
月光に照らされた男は、佳乃と目が合うと言葉を飲み込んだ。
バンダナこそしていなかったが最初の男と似たような服装の男は、小さく口笛を吹く。その音に、バンダナの男がもう一人を振り返って笑った。
「ほら見ろ、俺の言った通りだ。こんな山ん中に、女がいただろ?」
どこか誇らしげに胸を張るバンダナの男に、男は馬の頭を佳乃へと向けた。
「ああ、確かに。おまえの目は確かだったな」
ゆっくりと近づき来る馬上の男に、佳乃は嫌悪感を隠せない。僅かに後ずさると、身を硬くして男の値踏みをするかのような視線に対向した。
今すぐこの男達から逃げ出したい。
そうは思うのだが、折角逢えた人間から、何も聞かずに逃げ出すのは惜しい気もする。
情けなくも、自分は現在迷子なのだから。
「だが……」
言葉を区切り辺りを見渡す男に、バンダナの男は言い募る。
その続いた言葉に、佳乃は現在の自分の立場は一時捨て置き、何をおいても逃げ出さねば、と決意した。
「少し楽しませてもらうだけさ」
何を、どのように、かは理解したくもない。
一瞬にして鳥肌が立つのが解る。
男達の会話の隙に逃げ出そう……と佳乃がタイミングを計り始めると、意外にも後から来た男はバンダナの男を窘めた。
「馬鹿言え」
意外な男の言葉に、佳乃は落ち着くよりも先に混乱した。男の視線はバンダナの男の視線と同じく、下卑た鈍い輝きを宿している。とてもではないが、言葉通りに警戒を解ける雰囲気ではない。
佳乃が逃げ出すべきか、もう少し様子を見るべきかと戸惑っていると、とどめの一言が加えられた。
「攫って楽しんでから、お頭にみつかんねーうちに売るんだよ」
一瞬だけ安堵したことを佳乃は後悔する。
男の提案は、バンダナの男の提案よりも最悪だ。
この場で『楽しむ』のなら2人相手をすれば終わるが、『攫って楽しむ』となると、もしかしなくとも先ほど目の前を通り過ぎていった人数の相手をさせられるのではないだろうか。そして、『売る』ということは、その後も――
「おっまえも、悪いこと言うなー」
笑いながら伸ばされたバンダナの男の手を、佳乃は反射的に避ける。
「やっ……!」
そのまま逃げ出そうと後ずさり、佳乃は木の根に躓いて地面へと倒れこむ。
柔らかい土の上だったため、さほど痛くはなかったが、早く逃げなければかすり傷程度ではすまない。
「手間かけさせんなよ。可愛がってやっからよ」
佳乃が転んだため、馬上からは手が届かなくなったバンダナの男が馬から下りる。